サイバー空間はミステリを殺す 中編

 フリーのサイバーセキュリティコンサルタントの君島悟は、ぼんやりとパソコンの画面を眺めていた。フリーと言えば聞こえがいいが、お呼びがかからなければ無職と同じだ。初夏の日差しを浴びながら、昼からビールを飲み、怠惰な時間を過ごしていた。予定していた仕事がキャンセルされたおかげで、突然の夏休みとなった。
 画面には、『退屈な全能者』のツイッターアカウントが表示されている。君島は仕事柄、『退屈な全能者』の動きに注目していた。その仕組みになにかトリックがあるような気がしていたのだが、いくら考えても一向にわからない。ボロも出さない。結局、さじを投げたが、たまに思い出してサイトをのぞいている。

── 『退屈な全能者』が2015年3月6日に発生した通称『如月小学校死体遺棄事件』を解明しました。 #退全
 というツイートがツイッターで流れると、フォロワーが一斉にリツイートし、コメントを寄せた。『退屈な全能者』のサイトには真犯人の氏名などは掲載されていなかったが、一時間もしないうちにつきとめられ、インターネット上に真犯人と名指しされた人物の個人情報がさまざまな形で掲載された。

■ケースファイル5 如月小学校死体遺棄事件 『退屈な全能者』サイトより
■■事件の概要

2015年3月6日、東京都大田区にある如月小学校に、6歳の少女の絞殺死体が遺棄される事件が起きた。死体は、黒いゴミ袋に詰められた状態で2年A組の教室の教壇の上に置かれていた。発見者は登校してきた2年A組の生徒。黒いビニール袋を不審に思い、教員室に連絡、2年A組担任教師が中身を確認した。
死亡推定時間は、3月6日午前4時から5時。少女の着衣に乱れはなく首には犯行に用いたと思われる電気の延長コードが巻き付いたままだった。目撃者はなし。
被害者の少女は小学校の近くにあるアパートの一階の部屋に母親とふたりで住んでいた。少女の母親は家に帰ることが少なく、その日も前日から愛人の家に泊まり、留守にしていた。幼い子供がひとりで部屋にいることは近所に知れ渡っており、同情した近隣の住人が食べ物を差し入れたりしていた。
扉に鍵がかかっていないことが多く(少女は鍵を持たされていなかった)、近所の人間と思われる人々が勝手に家に入り、少女に悪戯をしていた痕跡もある。ネットの匿名ロリコンサイトに少女のものと思われる画像が掲載されたことも確認されている。
つまり、少女がひとりでいることを知っている人間なら簡単に少女の部屋に入り、殺害することが可能であった。
警察は殺害現場を少女のアパートと断定した。アパートからは小学校に続く細い裏道があり、多くの生徒が毎日利用していた。犯人もそこを利用したと考えられている。そして、施錠されていた校舎の扉からは入らず、施錠し忘れていた窓から侵入し(侵入位置は警察によって特定されている)、教室に死体を遺棄した。

■■事件解決へのアプローチ
ここまでわかっていながら、警察はまだ犯人を特定できずにいる。警察は早朝に帰宅した母親が、衝動的に犯行を行ったと考えている節がある。母親はその時間帯には愛人宅を出ており、車で送ってもらう途中だった。まっすぐ帰れば犯行時間には帰宅していたはずだが、母親と愛人は途中でコンビニに寄り、車の中で朝食をとったために帰宅が遅くなったと話している。口裏を合わせている可能性がないわけではない。
しかし、母親が犯人だったとした場合、小学校に死体を遺棄した理由が不明だ。必ず発見される場所に危険を冒して移動させたのはなぜか? 警察は気が動転していたためと語っているが、考えられない。また、小学校や裏道には母親に結びつく遺留物はなかった。
この事件の特徴は、『超可能犯罪』であることにつきる。人気のほとんどない未明の時間帯に、鍵のかかっていない部屋に入り、少女を殺害し、目撃される心配のない裏道を通って近くの小学校に遺棄する。犯行可能な人物は多数。あまりにも簡単かつ証拠の残りにくい状況だ。
少女に悪戯する目的で部屋に入った誰かが抵抗されたり、悲鳴を上げられそうになったりして、殺害してしまった可能性も否定できない。匿名ロリコンサイトに少女の部屋の場所は掲載されており、たちの悪いロリコンがその情報を鵜呑みにしてやってきても不思議はない。
もちろん、まったく他の人物が犯行を行った可能性も考えられる。
この事件で唯一の手がかりは、小学校の教室に死体を遺棄した点である。その理由がわかれば、犯行動機も判明し、そこから犯人を特定できる可能性がある。

■■動機
教室に少女の死を遺棄する意味について考えてみよう。
まず、少女の死体ということに注目すると、その教室の生徒あるいは担任教師に対するなんらかのメッセージと考えられる。定常的に少女に悪戯していたことをとがめたのだろうか? だが、そのために少女を殺すのはおかしい。言うことをきかなければ、お前を殺すぞという脅しだろうか? その可能性はないわけではないが、いまのところそこまで深刻な脅迫があったという事実は確認されていないし、私の調査でも見つからなかった。
少女の死体そのものに意味がなかったとすると、小学校に死体があるということに意味があるのかもしれない。
昨年、近くの中学校でいじめ殺人があり、その死体が校庭で見つかった事件があった。その時、起きたのことは、警察がやってくること、テレビ局がやってきて放送されること、事件について書くとツイッターやブログでアクセスを稼げること(アフィリエイトをやっていれば収入も増える)、カウンセラーがやってくること、学校が休みになること……といった一連の出来事だ。犯人は、地元の人間だろうから、当時なにが起きたかを知っていた可能性は高い。犯人の目的は、これらの出来事のいずれかを再び起こすことだったと仮定してみよう。
警察がやってくることが目的だった場合、古典的な推理小説なら一目惚れした素敵な刑事と再会したかったからという動機も出てくるかもしれないが、この事件の犯人が前回の捜査担当者と会っている可能性は低いし、同じ刑事がやってくるとは限らない。なのでその可能性は低い。他には警察がやってくることで、如月小学校に隠されていた他の犯罪や秘密を暴露してくれることを期待したという可能性もある。しかし今のところ特にそのような発見はないし、発見を促すような動きもない。
テレビ局がやってくる、ネットで評判になることは動機になり得る。有名になりたい、あるいはアクセスによってアフィリエイトで収入を得るなど、いかにも軽い動機だが、いまどきはそれくらいで人を殺してもおかしくない。これは動機のひとつとして保留しよう。もし、動機が有名になりたい、あるいはアクセス数を増やしてアフィリエイトで収入を得るなどなら、犯人はツイッターあるいはブログでこの事件についてたくさん発言し、それによって有名になった人物ということになる。
カウンセラーがやってくることは、警察がやってくることに近い。素敵なカウンセラーとの再会は、前回会っていないのだから成立しない。カウンセラーと話すことによって、なにかが明らかになる、あるいは自分がカウンセラーになにかを暴露できると考えた可能性はある。だが、今回のケースではカウンセラーは来なかった。前回は、被害者が同じ学校の生徒ということもあり、カウンセラーを呼ぶ必要性が高かった。今回は、被害者は如月小の児童ではなかったから学校側がそこまでの必要はないと判断したようだ。そのため犯人の動機がそこにあったかどうかわからない。もしも、そうだとすれば、殺人を犯してまで暴露したいなにかとはなんだろう? なぜ自分で学校の教師や両親あるいは電話やネットでどこかに相談しなかったのだろうという疑問が残る。
それほどの秘密なら、なにか手がかりがありそうなものだ。普段と異なる行動をとっているとか、おかしな言動をするとか。もしそうした目立つなにかがあれば、犯人である可能性がある。
最後は、学校が休みになるという動機だ。学校を休みにするには、爆破予告でも殺人予告でもよかった。しかし、犯人はわざわざ実際に殺人を行った。犯行予告よりも確実に休校できるということもあるだろうが、他の方法を思いつかなかった可能性もある。
休みにしたい理由はなんだろう? 学校に行くといじめられる、テストをさぼりたい、宿題をしていない、いろいろ考えられる。だが、ほとんどのものは一度限りではない。いじめも宿題も毎日続くからといって、毎日人を殺すわけにはいかない。それくらいは誰でもわかる。
一度だけのこと、人を殺してもいいくらい大事なことがあるのかもしれない。ここで2015年3月6日という日にちがキーとなる。実は、この日はある種の人々にとって特別な意味のある日だった。日本国内120万人が参加する『パチこれ』というオンラインゲームの月例イベント最終日だった。この日までに、イベントで与えられた課題をクリアしないと限定アイテムをもらうことができない。犯人は、イベントに参加したかったのに、その日まで参加できなかった。しかし、学校から帰ってからでは、時間が足りなくてイベントをクリアできない。学校を休みたいが、そんな理由で学校を休めない。そこで頭に浮かんだのは以前中学校で起きた殺人事件だ。あの時、学校は休みになった。誰かを殺せば休みにできる。
犯人の動機は、イベントクリアのために1日中ゲームをしたかったということだ。
同じ学校の友達は殺したくないし、抵抗されると大変そうだ。身近で一番殺しやすい相手を殺して、学校に死体を置いておけば休みになるだろう。実際、そうなったので犯人の狙い通りに事は運んだ。
なんからの理由で最終日までイベントに参加できなかった生徒、自宅が小学校と被害者宅に近い生徒、『パチこれ』の熱心なプレイヤー、最終日にイベントクリアした生徒、これらの条件を満たす人物が犯人になる。

■■調査
ここまでで可能性として残った動機、『アクセスを増やしたい』『カウンセラーになにかを暴露したい』『学校を休校にしたい』の三つに基づいて調査を行った。
まず、事件の後で積極的に発言した人物は生徒にも関係者にもいなかった。したがってアクセスを増やしたいという可能性は消えた。
カウンセラーに相談したいことが動機、という可能性を検討するために、目立っておかしな言動をしている人物を犯行現場および小学校周辺でソーシャルネットワーク上の情報から探してみた。
といってもネット上では、みんなリアルとは違う言動をするものだ。リアルより過激だったり、鬱だったりすることもよくある。しかし、こちらにはソーシャルネットワーク上の発言から発言者の特徴をプロファイルするシステムがある。これを使うと、許容範囲の言動とそうでないものをある程度識別することができる。
システムでチェックした結果、許容範囲を超えた不安定あるいは危険な言動を行っていた人物を六名発見できた。これらの人物の犯行推定時刻前後の様子をソーシャルネットワーク上に残っていた行動履歴から確認すると全ての人物にアリバイがあった。したがって、『カウンセラーに相談したいことが動機』という可能性は低くなった。

残る動機は、「学校を休校にしたい」だ。自宅が小学校と被害者宅に近い、『パチこれ』の熱心なプレイヤー、最終日にイベントクリアした、これらの条件を満たす人物が犯人がひとりだけ見つかった。ソーシャルネットワークで誇らしげに、クリア報告をしていたから発見は簡単だった。しかも、それに先立つ数日、インフルエンザのために寝込んでおりゲームもできなかった。
決め手となる証拠は目撃者だ。容疑者の兄(中学生)がクラブの朝練のために早起きしており、インターネットで生放送を行い、その内容を時々ツイッターに流していた。動画はキイワードで検索しにくいが、ツイッターにその時々の話題を文字で流してくれているので発見しやすかった。
もともと朝練がある時には、よく生放送を行っていたが、その時の放送では容疑者がどこかから帰ってきた模様が途中にはさまれていた。廊下を歩く音がし、兄が「なに? もう起きてるのかよ? どこ行ってたんだ?」と声をかけ、それに対して容疑者が「別に」と答えている。この時間帯、容疑者はどこかに出かけていたことがわかる。そしてそれは普段とは異なる行動だった。
ここで生放送をよく知らない方のために説明すると、インターネットでの生放送はスマホのカメラで簡単に行うことができる。音声だけなら、さらに簡単だ。大人はもちろん中学生や高校生が自分のスマホを使って、学校、自宅、通学中、カラオケなどで生放送を行うのは珍しくない。ひとりでヒマな時に、生放送をしているようだ。昔の人のように『放送』だからといって構えたり、緊張することはないので、化粧中や入浴中、授業中で手持ち無沙汰の時に放送する者もいる。家族団らんの食事中にも生放送しているので、プライバシーなどあったものではない。
兄の通っている中学校は、昨年いじめ殺人のあった学校であり、弟である容疑者がそのことを印象深く兄から聞いて記憶していた可能性は高い。
兄は自宅で食事中にもたびたび生放送を行っており、犯行の前に容疑者がインフルエンザで寝込んでいたことや、『パチこれ』の熱心なプレイヤーだったことも確認できた。容疑者の家では、兄が生放送好きだったのが幸いして、比較的短期間に条件に適合することが確認できた。

■■証拠
状況証拠から容疑者を特定することができた。しかし決め手となる物的証拠も必要だ。ここで私が注目したのは、被害者の持ち物だ。警察からの発表はないが、被害者が普段身につけていたものでなくなっているものがある。それを容疑者が持っていたとすれば動かぬ証拠となる。
それは財布だ。母親は家を留守にする時に、被害者に食事代として千円あるいは二千円程度の現金を渡していた。その金で買い物をする姿は、近所のコンビニで何度も目撃されている。人気キャラの柄の小さなもので、被害者はとても大事にしていたようだ。それがなくなっていた。警察がその情報を伏せているのは犯人に警戒させないためなのかもしれないが、被害者の母親がさんざん近所で話していたせいで、周辺住民には知れ渡っている。私もソーシャルネットワークでこの情報を得た。一部では、少女に悪戯した者がなにがしかの金を渡していたという噂もあり、財布の中には意外と多額の現金があったのではないかと指摘する者もいる。真偽のほどは置くとして、犯人はネットあるいは近所の噂で少女を殺すのが容易であることを知っていたわけだから、同様に財布に現金を持っていることも知っていたと考えてよいだろう。だから少女を殺害した後で、財布を奪ったのだろう。
容疑者の兄の生放送がここでも役に立つ。3月7日の夕食時の放送で、容疑者が被害者が持っていたものと同じ財布を持っているところが写っている。これだけで断定はできないが、被害者とつながる指紋などが見つかれば決め手の証拠となる。殺した相手の財布を持ち歩くのはあまりにも不用心のように思えるが、自宅内でつい油断して持ち歩いていたとも考えられる。

■■結論
これまでの考察を踏まえ、可能性が高い犯人(仮にAとしよう)を特定できた。犯行の手順をおさらいしよう。
Aは熱心な『パチこれ』プレイヤーで月例イベントを毎月クリアしてきた。しかしインフルエンザにかかったために、事件のあった月のイベントに参加できなかった。ようやく治ったのは、イベントが終わる前日というタイミングだった。イベントをクリアするには少なくとも半日以上の時間がかかる。親は厳しく仮病やさぼりは許されそうにないから、明日は学校に行かなくてはならない。そうなると、ここまで全てのイベントをクリアしてきたことが台無しになってしまいかねない。悩んだ末に、こう考えた。
── 学校を休めないなら、学校を休みにすればいいんだ。去年、近所の中学校が休みになってたじゃん。あれと同じことをすればいい。
彼はネットで去年の事件を調べ、殺人事件だったことを知り、同じ学校の誰かが死ねば休みになるだろうと考えた。おそらく同級生の誰かを殺そうと最初は考えただろう。しかし、実際に殺すことを考えると体力的にも体格的にも互角であり、病み上がりというハンディもある。果たして顔見知りを殺害するのは忍びないという心情になったかどうかは不明だが、いずれにしても同じ学校の生徒を殺すのは断念した。
次に考えたのは、誰でもいいから殺して死体を学校に置いておけばいいのではないかということだ。生徒が殺されたわけではないが、死体が教室にあるだけでも充分インパクトがある。もしかすると、他の事例をネットで調べたのかもしれない。死体があれば、たいていの学校は休みなる。
次の問題は、手近な殺しやすい相手を見つけること。明日までに殺して、その死体を学校に運ばなければならないから、すぐに殺せる相手でなければならないし、もちろん自分は捕まりたくない。その条件を満たせるのはひとりしかいなかった。それが今回の被害者だ。鍵をかけていない部屋にいる無力な少女。
Aは頭の悪い子供ではないので、何度かシミュレーションしたと考えられる。人目につかない時間帯にひそかに道を通って静かに手早く殺害し、袋に詰めて裏道を抜け、小学校に忍び込み、教室に死体を放置する。ついでにたくさんお金が詰まっているという噂の財布も手に入れる。
全てはうまくいき、ほっとして家に帰ると、朝練に出かける準備をしていた兄の生放送にでくわす。これが最初の誤算。
次の誤算は、財布を持っているところをやはり放送されてしまったことだ。おそらく財布そのものを人目に晒したり、使ったりするつもりはなかったと考えられる。自宅なら大丈夫と油断して生放送に写ったのが致命的だった。
それでも、私に見つからなければ、誰も彼の犯行とは思わなかっただろう。


 この推理は夜に掲載され、翌朝にはAの本名や住所など全てがネットに出回っていた。不幸なことにAとその家族は、『退屈な全能者』を見ていなかった。推理発表後、Aと両親に知人から電話やメール、LINEが来たが、ネットの掲示板に悪口を書かれたくらいと高をくくり、まともに受け取らなかった。Aの兄は事の重大さに青くなって騒いだが、両親はとりあわなかった。
 次の日、Aの父親が出勤のため玄関を出ると、そこにはスマホのカメラを自分に向けたたくさんの子供たちが待っていた。真犯人宅からの生放送だ。だが、ネットに疎い父親にはわからない。なにが起きたかわからずに茫然としていると、生放送者たちは口々に勝手なことをわめきだした。
「本当に殺したんですか?」
「父親としての責任をどう思ってます」
「Aはどうしたんです? 本人を出してよ」
 父親が無言で扉を閉め、振り返ると青い顔をした家族が立っていた。全員、なにが起きているのかわからない。
「お前、なにかしたのか?」と父親は尋ねると、Aは黙って首を横に振った。
「Aがこの間の小学校の殺人事件の犯人だって言われてるんだよ」
 兄がスマホで生放送を眺めながら答える。
「やべえ。十人以上もここから生放送してるじゃん。てか、怖い。Aは逮捕されちゃうんじゃないの?」
「なんだよ、それ。オレ知らないってば」
 Aは泣きそうな声で叫び、父親は玄関ののぞき穴から外の様子をうかがう。
「とにかく会社に行かなきゃ……」
「ちょっと、後はどうするの? Aは学校に行けるの?」
「行かなきゃダメだろ」
「だって、なにされるかわからないでしょ。それに生放送って、顔とか全部写っちゃうんでしょ」
「オレにだってわからないよ!」

 結局、A一家はその日もあくる日も、ほとんど外に出ることはできなかった。深夜になってから、こっそりとコンビニに食べ物を買いに行った。
 やがて事態を聞きつけた警察が現れ、生放送者たちを追い払い、その後もパトロールするようになって、やっとAたちは外出することができるようになった。
 やがて『退屈な全能者』の推理を知ったマスコミが取材に現れた。Aの両親はここぞとばかりに無実を訴え、『退屈な全能者』の推理の無責任さといい加減さをなじったが、雑誌もテレビでも根拠のない感情的な反論として紹介されてしまった。
 そのうちAが早朝に学校に入るところを見かけたという目撃者も現れ、Aの持ち物が学校までの裏道などで次々と発見された。『退屈な全能者』の推理を知った子供たちが学校に来れないAの机から勝手に持ち物を盗み出して、ばらまいたらしい。
 証拠のねつ造はさらにエスカレートし、自分の手を切った血をハンカチにつけて、これはAが少女を殺した時のハンカチだと言い張る子供や、女児用の下着をAの家の近くに置いて、殺された少女の下着があったと騒ぐ子供が現れ、証拠に乏しかった事件は、ニセの証拠で埋まった。何百件の通報と証拠発見に警察は対応しきれなくなった。やむをえず、警察が形だけA宅を訪れると、憔悴しきったAが犯行を自供した。


 君島は、『退屈な全能者』の推理を何度も読み返し、結局仕掛けのわからないまま諦め、部屋を出て街に向かった。
 池袋に来ると安心する。この街もきれいになったと感じる一方、どこまでいっても胡散臭さの抜けない場所だと思う。特に西口はいい。きれいになった街並みから一本脇道に入るだけで、昼でも仄暗くうらぶれた店が並ぶ通りに変わる。ショーウィンドウに写る君島は、やさぐれた中年男だ。くすんだ色のジャケットにジーンズ、ぼさぼさの髪。勤め人には見えない。どことなく愛嬌のある下品な顔をうつむけ、背中を丸めて人混みを抜け、怪しげな通りの地下にある店に入った。
 黒く重い扉を押すと、時間の感覚を失う。まだ昼だというのに暗い店内のカウンターで、ドライフラワーのようなママがけだるそうに本を読んでいた。入ってきた君島を横目で見るが、「いらっしゃいませ」とは言わず、視線を本に戻す。君島は店の奥のボックス席に向かった。
「君島さんですね」
 凛とした声が暗がりから響いた。そちらに目を向けた君島は、真っ黒だなと思う。短めのボブの黒髪に、ぴったりした黒いパンツスーツをまとった女が立っていた。
「この店でオレを待つ人間はいない。あんた、誰だ?」
 君島は、女の顔からつま先までぶしつけな視線を走らせた。二十代半ばくらいに見える女は、百七十センチ近い身長で細い体躯をしていた。作り物のように整った顔に、妙に澄んだ瞳をしている。信じるものを持っている人間の目だ。いやな予感がした。
「綴喜堕姫縷(つづき だきる)と申します。お願いしたい仕事があります」
 女はそう言うと軽く会釈し、君島の目をじっと見つめて視線をはずさない。君島はうつむいて視線から逃げた。若い女にまじまじと見つめられるのは苦手だ。
 いったいこんな女にオレのことを吹き込んだのは誰だ? と思ったが、すぐに見当がついた。この押しの強さといい、全身から漂う妙な威圧感といい、間違いない。あいつの仲間だ。
「なんの用だ?」
「吉沢から連絡がいっていませんか? インターネット安全安心協会の綴喜です」
 君島を責めるような口調だ。
「そんな話は聞いてない」
「それは失礼しました。吉沢からあなたに依頼するよう紹介を受けました。よろしければ依頼内容の説明を行います」
「……せっかちだな。なんの依頼か知らないが、引き受けるなんて言ってないぞ」
「こちらが強く要望する依頼をあなたは断れない。吉沢からは聞いています。私の言う意味がわかりますね」
 吉沢は、サイバー畑では知られた警察庁のキャリアだ。何度か捜査でかち合うことがあり、その時君島が違法とも言える強引な調査方法をとったことをネタに脅している。思わず、ため息が出た。
「おかけになってください」
 堕姫縷はそう言うと、君島が向かおうとしていたボックス席にさっさと腰掛けた。君島はしばし躊躇したが、頭をかきながら堕姫縷の向かいに座る。カウンターにいたママが、好奇心に満ちた眼差しでふたりを見る。
「『退屈な全能者』の仕組みと主宰者の正体を明らかにし、潰していただきたい。予算は必要なだけ用意します」
 堕姫縷は身を乗り出す。君島は反射的に身体を椅子の背もたれにもたれかけさせ、目をそらした。
「えらく強引な依頼だな」
「正しく理解していただくためです。手段は問いませんが、作業場所はこちらで指定します。必要に応じての外出は許可します」
「監視つきで軟禁されるのか?」
「作業時間だけいてください。夜はご自宅にお帰りいただいて結構です」
「なんで……」
「一カ月以内に全てを終わらせていただきます。そのための措置です。こちらもできるだけの協力はします」
「そんなこと……やってみなけりゃわからない」
「この期限はこちらからの強いリクエストと受け取ってください」
 強い、という言葉を強調した。君島は腕を組んでうなる。埃の貼り付いた暗い天井に目を向け、なにかを考えるそぶりを見せる。
「わかった。そちらの持っている情報と考えていることをできるだけ教えてくれ」
 堕姫縷は傍らのバッグから資料を数冊とUSBスティックを取り出す。
「ビール飲んでもいいか?」
「打合せです。コーヒーの方がよろしいかと思います」
「コーヒーは飲まないんだ」
 君島はカウンターのママに、ビールと叫んだ。堕姫縷が小さな声で、「クズ」と漏らす。

「インターネット安全安心協会は警察庁の外郭団体です。実効的なサイバー捜査の一部を担っていると考えてください。私からの依頼は警察庁の意向に沿ったものと考えてください。まず、当方(警察と考えていただいて結構です)がいだいている懸念について、お話しします。『退屈な全能者』のおかげで、一般市民に警察は無能だというありがたくない誤解が広がっています。法を遵守して捜査する限界を、警察の能力不足と思われているようです。次に類似の危険行為が広がる懸念があります。すでにネット上での過剰な社会的制裁が行われるようになっており、さらにエスカレートする危険があります。ネットの上で勝手に捜査、裁判、刑の執行まで行われては治安は崩壊します」
 君島は、せわしなく動く唇をぼんやりと見ながら毒のある女だと思った。堕姫縷の目がきらきらと輝いているのが怖い。挫折もなく、なにかを信じてきた人種だ。そういうヤツは、信じるものを失った人間の気持ちを理解できない。この女に、オレは欠陥品のように見えているのだろう。
「e-punishmentのことを言ってるのか?」
 e-punishmentとは犯罪者に対してネット上で社会的制裁を与える一連の活動を指す。犯罪者の顔写真や実名をネットに晒したり、罪を糾弾したりする。その活動がはっきりとわかる形でネット上に広がったのは、2012年に起きたバンクーバー暴動だ。市内で多数の市民が車に火をつけ、店舗を破壊した。多くの善良な市民により、こうした破壊活動を行った犯人を糾弾し、特定するサイトが生まれた。そこには当日居合わせた市民たちが自発的に撮影した犯人たちの姿をアップロードし、その写真を見た他の市民が犯人の実名や正体を暴露した。バンクーバー市警もその情報を参考にしたと言われている。
 だが、e-punishmentはネットいじめやリンチにつながりかねない危険をはらんでいる。リアルの世界なら司法機関が無実であるかどうかを判断するが、ネットの世界にはそのような司法機関はない。いったん火がついてしまったら、またたく間に広がり、抑えが利かなくなることも珍しくない。サイバー空間への依存度が高まっている時代において、ネットで追い詰められることは死刑判決にも等しい。やがて本物の司法機関よりe-punishmentを恐れる人間の方が多くなるかもしれない。警察が懸念をいだくのも道理だ。
「その通りです。治安の維持は警察にまかせていただきたい」
「しかし、それだけのために正体も確認せずに潰せと言うのか。行き過ぎじゃないか? 最初は軽く注意するくらいでもいいだろう。正体がばれたとわかれば、向こうも自由にできなくなるだろう」
「通常ならスリーストライクルールを適用します。しかし、今回は特別な事情があります。早急に対処するように上からの指示が出ました」
 堕姫縷が唇を軽く噛んだ。
「触れてはいけない部分? ああ、警察内部でもみ消された事件とか、警官が犯人とかそういう話か?」
 君島の言葉に、堕姫縷は露骨に眉をひそめた。
「この件に関して私は話す許可を得ていませんので、悪しからずご承知おきください。話を続けます。『退屈な全能者』の本体は、どうやってもたどりつけない匿名ネットワークの中にあって通常の方法では追跡が不可能です。Bitcoinという電子通貨を使って寄付できるようになっていたので、特定の事件について調べてほしいという依頼をつけたり、情報提供を装って送金もしてみました。送金先の口座は毎回変わっており、依頼した内容は全く実行されませんでした。あくまで寄付しか受け付けないようです」
「Bitcoin……じゃあ口座を特定できても他に送金されれば、もうその先はわからないよな」
「そうです。おかげで二百万円近くどぶに捨てました」
「オレの税金がそんなことに使われてるとは悲しいな」
 君島が皮肉を言うと、ママがビールとグラスを持ってきた。それを受け取って手酌でグラスに注ぐ。堕姫縷は、無言でその様子を眺める。
「君島さんなら追跡できることと期待しております」
「あんたなあ。それって罠を張れってことだろ? 違法捜査じゃないのか?」
「君島さんが、どのような方法を使うかについては関知しません」
「……食えない女だ」
「参考になることをお教えします。今回作業をしていただくNPOは警察からのリーク情報を掲載するサイトを運営しています」
「インターネット安心安全協会……警察の天下り用の全国組織だよな」
 『インターネット安心安全協会』は、警察の天下り用全国組織だ。全国に支部があり、セミナーや教本の配布、情報サービスを行っている。特筆すべきは、サイバー事件ニュースのコーナーだ。これまでは個別の警察官が勝手にリークしていた内容を一元化して流している。その調整のために裏で力技が使われたらしい。一般市民も記者もそこをチェックしてリーク情報から捜査の進展を知ることになる。
「情報提供コーナー、いわゆるリークコーナーには利用者を特定し、追跡する仕掛けがあります」
 薄闇の向こうで、堕姫縷が表情を変えずに言った。
「それって違法じゃないのか?」
「我々が使用している方法には違法性はありません。ただし、そこから個人情報まで行き着くことはできません。あくまで端末の特定までです。後は君島さんの領域です」
 つまり、違法行為で突き止めろと言っている。
「……まあいい。じゃあ、そのサイトにオレがマルウェアを仕込んでもいいのか?」
「それはできません。しかし、追跡情報とログはお渡ししますので、そこから先はおまかせします」
「頼んだら囮のための誤情報を掲載することもできるか?」
「内容にもよりますが可能です」
「わかった。その時はよろしく頼む」
 答えながら、結局引き受けてしまったと君島は苦笑した。
「本日はここまででよろしいでしょうか?」
 堕姫縷の言葉に君島はうなずいた。堕姫縷はすっくと立ち上がると、「ここは私が」と小走りにカウンターに駆け寄って会計した。それからふたりして出口へと向かう。君島は礼を言うべきかどうか迷ったが、結局言わなかった。
「君島さん、お噂はかねがねうかがっておりました。今回、一緒に仕事ができて光栄です」
 店を出た暗い路地で堕姫縷は手を差し出したが、君島は整った細い指を一瞥しただけでポケットに突っ込んだ両手を出そうとはしなかった。
「初対面で、そんなことを言う女は信用できない」
 言い訳するように君島が言うと、堕姫縷の目に暗い光が宿る。
「吉沢の言うように、あなたには調教が必要ですね」
 堕姫縷が艶然と微笑むと、君島は黙って背を向けた。
「明日、協会でお待ちしています」
 その背中に堕姫縷が声をかけた。

 翌日の朝から君島は、インターネット安全安心協会の会議室で作業を始めた。グレーのこじんまりした部屋に、会議机とパイプ椅子。それにあてがいぶちのパソコンしかない。殺風景にもほどがあると君島は思ったが、口にはせず、自作のソーシャルネットワーク検索ツールを駆使し、堕姫縷からもらったログや資料とつきあわせながら調査を進めた。
 せめて音楽でも流してくれないかと思っていると、ノックの音がした。返事するよりも先に、堕姫縷が扉を開けて入ってきた。
「お飲み物でもいかがですか?」
 見ると手にマグカップを持っている。
「……コーヒーは飲まないと言ったはずだろ」
「紅茶です。それともチョコレートの方がよかったですか?」
「もらおう」
 堕姫縷は君島の使っているノートパソコンの横にカップを置くと、隣に自分も腰掛け、操作中の画面をのぞき込んだ。淡い香りが君島の鼻腔をくすぐる。
「気が散るんだが」
「あなたの操作内容は、モニターしています。隠しても意味ありません」
 堕姫縷はそう言うと、画面の一角を指さした。
「なにを調べているんですか?」
 君島は、うるさいと言いかけて口をつぐんだ。
「『退屈な全能者』が解決した事件の共通点を探してらっしゃるんですね。それならこちらでも調べました。事件後二カ月以上経っても、決め手になる証拠がなく、容疑者が見つかっておらず、動機も不明な事件です。被害者と犯人もしくは近しい人間がソーシャルネットワークのヘビーユーザーというのも特徴です」
「ソーシャルネットワークで情報収集しているんだから、当然そうなるよな。ちょうどいい。あんたに訊きたいことがあったんだ」
「なんでしょう?」
「解決されたとされている事件のうち、本当に真犯人だったのはどれくらいなんだ? ほんとのところは誰にもわからないだろうけど、あんたの心証でいいから教えてくれ」
「……『退屈な全能者』の推理を一通り確認しました。もともと物的証拠のない事件ばかりなので断定はできませんが、ほとんどの事件が真犯人ではない可能性の方が高いように思えます。しかしながら確認には時間がかかりますし、犯人と指摘された人々にはアリバイがなく、動機はあります。そして、ひとたび『退屈な全能者』が犯人だと指摘すると、支持者たちが一斉に目撃情報と証拠を警察に報告しはじめます。ほとんどはねつ造ですが、いちおう全てを確認しなければなりませんから、名指しされた犯人以外を追っている余裕などありません。ですから、『退屈な全能者』の結論を覆すのはかなりやっかいです」
「ほとんど警察捜査に対する善意のDDoS攻撃だな」
 DDoS攻撃とは、サーバーに対して多数のコンピュータなどから一斉に大量のアクセスを繰り返し行い、負荷を高めてサービスを停止させてしまう攻撃だ。ねつ造した証拠を多数の人間が大量に届け出るのは、手動のDDoS攻撃のようなものだ。
「善意のDDoS攻撃とは言い得ています。今はまだ『退屈な全能者』だけで、事件の”解決”が数ヶ月に一回だからなんとかなっていますが、全国各地にネット安楽椅子探偵が現れて、毎月事件を”解決”するようになったら警察機能はマヒしかねません。司法制度に対するテロ行為です」
「警察が『退屈な全能者』を危険視する意味がだんだんわかってきたよ。確かに、こんな連中が増えたらやっかいだ」
 君島の言葉に堕姫縷は首を振った。
「いえ、ほんとうに問題なのは、本物の証拠が出てくることです」
「そういえば、推理通りに本物らしい証拠が発見されたこともあったな」
「事件が解決するのは喜ばしいことですが、『退屈な全能者』に指摘されるまで警察が物的証拠を見つけられなかったというのは失態です」
「確かにそれじゃ、警察は間抜けだと思われるよな。実は、もうひとつ気になっていることがある。有力な物的証拠の出てくる割合が最近の事件ほど多いんだ。なにか意味がありそうだ」
「……君島さんは『退屈な全能者』の推理が正しいと思いますか?」
「動機と物的証拠があって、アリバイがないならそれは真犯人だろ。少なくとも起訴されて裁判になったら、そう判断せざるを得ないんじゃないのか?」
 君島は笑った。自分で自分の言葉を信じていない。
「なにかがおかしいと思いませんか?」
 堕姫縷の言葉に君島は目を閉じて腕を組んだ。『退屈な全能者』の推理に登場するのは突拍子もない動機だ。あんな動機で罪を犯すヤツがたくさんいるとは思えない。しかし犯行シナリオはきれいに組み立てられており、アリバイはなく、状況証拠や物的証拠はある。
 君島は、『退屈な全能者』のやっていることをなぞってみた。まず解決する未解決事件を選ぶ。ソーシャルネットワーク上の情報から関わりありそうな人物や事実を収集し、それを結びつける動機とシナリオを考える。そしてそれに沿った形で物的証拠や状況証拠が見つかる。
 解決する事件をどうやって選んでいるのだろう? おもしろそうなもの? 注目されているもの? いや、ソーシャルネットワークで情報収集しやすそうなものを選んでいるに違いない。
 選んだら情報を収集して動機とシナリオを考える。サイトに掲載しているのと同じような手順を踏んでいるのだろう。
 そして納得できる推理が完成したらサイトにアップすると、『退屈な全能者』の支持者や警察がそれを支える証拠を見つけ出してくれる。『如月小学校死体遺棄事件』のみたいに、犯人扱いされたヤツが自供することだってあるだろう。
 もし、この通りの手順だとすれば、最終段階で証拠が見つかるということは、推理の正しさの証明になる。では本当に名探偵なのか? だが、なにかがしっくりこない。
「なにかが違うんだろうな」
君島は独り言のようにつぶやくと席を立った。


 君島が、インターネット安全安心協会にこもって二週間が過ぎた。その間にも新しく事件が解決された。インターネット安全安心協会に張った罠にはなにもひっかからなかった。『退屈な全能者』が推理した事件のニセ情報も掲載してみた。アクセスログから読み取れるのは普通に関心ある人々が何度も繰り返し訪問しているということだけだ。かなりきわどい手法も使ったが、それでもなにも得られなかった。
 つまり、『退屈な全能者』は予想以上にネット上の捜査方法、攻撃方法を熟知している人物ということになる。サイトを運営している以上、それなりの技術は持っているだろうが、サイバーセキュリティ専門家だってうまくカモフラージュした最新の攻撃をくらったらやられることもある。相当の知識を持っていると思って間違いない。そしてそれほどのレベルの人間は、国内にそれほどに多くない。サイバーセキュリティ専門家、警察や自衛隊などのサイバー関係者、研究者、そしてサイバー犯罪者。敵は絞られたはずだが、こうした人々のほとんどは堕姫縷がチェックしたと語っていた。一定以上のサイバー技術を持つ者は、核研究者なみに取り扱い注意だ。カンファレンスやネット上のコミュニティなどに参加したことのある技術者を中心に、警察が要注意サイバー関係者としてリストアップしていた中に、それらしい人物は見当たらなかった。


■ケースファイル8 調布連続殺人事件 『退屈な全能者』サイトより
■■事件の概要

2014年9月から12月にかけて複数の殺人事件が調布市で起きた。手口や犯行時刻、被害者のプロフィールが異なることから警察は、異なる事件と判断して捜査していたが、それは誤り。同一犯による犯行であり、手口や犯行時刻が異なるのは、完璧を期するためにもっとも安全な時間と犯行方法を選択したためである。
犯行1 2014年9月12日9時30分調布市の野川のほとりで散歩中の老人が死んでいるのが発見された。頭部を石で数回殴られたため。
当時、その周辺は人気がなく目撃者はおらず、物的証拠も残っていなかった。老人を殺す動機を持つ者も見つからなかった。
犯行2 2014年10月20日未明、調布市調布の住宅街で十六歳の少女の絞殺死体が発見された。犯行推定時刻は20日の午前零時から3時の間。少女はたびたび外泊することがあり、家族も不在を気にしていなかったという。
犯行3 2014年12月2日正午、調布駅からほど近いオフィスビルの12階から男子中学生が転落して死亡した。少年には自殺する理由はなく、その前の友人との会話などからも自殺を予想させる文言はなかった。

■■事件解決へのアプローチ
この三つの事件はそれぞれ独立した殺人事件のように見える。そこに囚われると警察のように解決から遠ざかる。仮に同一犯による連続殺人だと仮定して、どのような可能性があるかを検討してみよう。

■■動機
一見すると、この三人には共通点がない。共通点は、目撃者や物的証拠がほとんどないことと、全員がツイッターやフェイスブックの利用者だったことくらいだ。
殺しやすい相手を誰でもいいから殺す、という無差別な犯行なのだろうか? そうは思えない。
被害者および近しいと思われる人々のソーシャルネットワークの記録を調べたところ、あるひとつの共通点が見つかった。被害者全員が、2014年5月12日16時に調布駅前で人と待ち合わせしていた。おそらく偶然の一致だろう。居合わせたことは偶然の一致でも、そこでなにかを共有してしまった可能性がある。例えば、犯罪を目撃するとか。
その”なにか”を見つけるのに、さほど手間はかからなかった。2014年5月12日16時過ぎに、幼児が交通事故に遭い死亡している。仮にY君としておこう。
その場に居合わせた何人かが、この事故をツイッターやフェイスブックに書いた。悪気はなかったかもしれないが、Y君に近しい人ならいい気持ちはしないだろう。ましてや、犯行1の被害者である老人は写真までアップしていた。のちに削除されたが、老人のネットリテラシーの低さには驚く。
被害者は、そこにいただけだが、Y君の死を深く悼む人物なら、もしかするとなぜ助けられなかったという恨みを持つ可能性もないとは言えない。

■■証拠
全ての事件で犯人につながる証拠は、なにもなかった。だが、本当にそうだろうか? Y君の関係者に絞って、なにか痕跡がないかを確認してみた。両親、兄(Y君には兄がいた)、祖父母、近しい人々のソーシャルネットワーク上の情報を確認すると、それぞれの事件でアリバイのない人物が浮かび上がってきた。事件当時、中学2年生だったY君の兄だ。
Y君の兄と事件を結びつける物的証拠を調べてみる。Y君の家、Y君の兄が通っていた中学校と犯行現場はいずれも徒歩圏内だ。Y君の兄は、自転車通学だったので、自転車を使えばかなり移動は楽だったと考えられる。ちなみに、全ての事件に共通するものがもうひとつあった。天気だ。いずれも晴もしくは曇りだ。自転車には都合のよい天気だ。ついでに言うと、自転車の移動は目撃されにくく、仮に見られても顔や身体の特徴まで瞬時に記憶できないだろう。だが、丹念に調べれば目撃情報あるいは犯人につながる物的証拠を見つけられる可能性がある。

■■結論
犯人は事故に遭ったY君の兄である可能性が高い。彼はまだ中学生だが、犯行は可能だろう。
私はあくまで安楽椅子探偵だ、後はリアルに有志の皆さんが証拠を固めるなり、警察の方が捜査するなりすれば自ずと明かになるだろう。


 『退屈な全能者』のサイトに推理が掲載されると同時に、『退屈な全能者』ツイッターにも情報が流れた。フォロワー数三十万人を超えるアカウントの影響力はすさまじい。フォロワーはリツイートを繰り返し、瞬く間に調布連続殺人事件の真相とその犯人の情報がネットに広がった。そして『退屈な全能者』が伏せていた犯人の名前もすぐに明らかになり、一緒に拡散しはじめた。
 Yの兄の同級生や知人らしき人々が次々と写真や個人情報をツイッターやブログに掲載しはじめ、翌日には家の前でインターネット実況放送を試みる者まで現れた。Yの兄の自宅であるマンションのポストには、「人殺し、死ね」などという落書きが書かれ、ゴミが突っ込まれた。両親は警察に相談して、パトロールしてもらうようにしたものの、騒ぎは一向に収まる気配はなかった。
 やがて、おそらくなりすましの愉快犯と思われるYの兄名義のツイッターアカウントが現れ、犯行の状況の説明や被害者への怨嗟の言葉を流しはじめた。
 典型的なネットいじめのネガティブスパイラルが始まっていた。こうなると、警察など司法が介入するか、自然に沈静化するのを待つしかない。下手に止めようとすれば、「そう言うお前は、Yの兄本人じゃないのか」、「共犯者だろ」と逆襲されかねない。いじめと同じで、止めに入れば次のいじめのターゲットになりかねない怖さがあった。実際、『退屈な全能者』の推理に異を唱える発言をネット上でした者は、個人情報を晒され、いやがらせを受けることが多かった。
 やがて『退屈な全能者』の言っていた場所に証拠が見つかった。Yの兄の自転車が電信柱や塀とこすれた痕跡と、最初の被害者の老人の持ち物と思われる血のついた財布がYの家から出たゴミ袋から出てきた。そして『退屈な全能者』の事件の常として自称目撃者と、ねつ造された証拠も多数挙がってきた。
 君島は事件関連の情報をチェックしながら違和感を覚えた。『退屈な全能者』がネットに掲載している通りの手順で調査と推理を行っているはずはないという確信につながるなにかだ。
 『退屈な全能者』の論理は一見もっともらしく思えるが、実際に同じ方法で推理するのは不可能に近い。利用しているソーシャルネットワーク解析ツールの機能のせいではない。対象になる情報量が膨大すぎるのだ。しかも動機にかかわるような部分は、機械的なアルゴリズムで絞り込むことは難しい。浮かび上がってきた点を結ぶような動機があり得るのかを、いちいち人間が考えなければいけない。気の遠くなるような作業量と精神的負荷だ。
 もしかすると多数の共犯者がおり、全員で手分けして動機を考えているのかもしれない。それなら可能性がないわけではないが、共犯者がいるとは考えづらい。
 さまざまなことを考え合わせると、ネットに書いてあるようには推理していないのだろう。では、実際にはどういう手順で推理しているのか?
 君島は目の前の端末の画面を食い入るように見つめていたが、ふっと目をそらして立ち上がり、部屋を出た。なにかが浮かんで来そうで出てこない。こういう時は、タバコが欲しくなる。
「君島さん、どちらに?」
 廊下に出ると、堕姫縷に出くわした。思考を途切れさせたくない君島は、無言でタバコを吸う仕草をしてみせた。堕姫縷が口をへの字にした。
「できれば一日に一度はなにをなさっていたのか報告をお願いします」
そんなことやってられるか、と言いそうになり、君島は口をつぐむ。歩きながらも、頭の中でパズルを組み立てる。
 ビルの外に置かれた灰皿代わりのバケツを前に、ぼんやりタバコをくわえる。
 『退屈な全能者』は、真相や真犯人を明らかにするのが目的じゃないと割り切れば違う方法論が可能だ。例えば、誰も考えなかったような『真相らしいもの』を見せつけたいだけだったらどうだ? 『退屈な全能者』の推理を特徴づけているのは奇抜な動機だ。奇抜な動機を持つ予想外の犯人だから警察の捜査の手が及んでいなかった。中心にあるのが、『動機』なら、それは情報収集の結果としてもらたらされるものではないのかもしれない。
 そこまで考えた君島は、あっと声を上げそうになった。頭の中でパズルがはまった。
 タバコを乱暴にバケツの中に放り込むと、足早に屋内に戻る。想像通りなら、とんでもなく単純で危険な仕掛けだ。

 君島が作業用の会議室に戻ると、堕姫縷が腕組みして待っていた。ぴったりした黒のパンツスーツに身を包み、足を組んでいる。パンツの裾からのぞく細い足首を見た君島は、初めて堕姫縷に女を感じた。
「なにか用か? 忙しいんだが」
 ぶっきらぼうにそう言うとパイプ椅子に腰掛け、今気がついたことの検証を開始する。『退屈な全能者』と同じ手順で同じ犯人にたどりつくかやってみるのだ。
「お忙しいなら喫煙時間を削ると効率的だと思います」
 堕姫縷はとげのある口調でそう言うと、君島の目の前に一冊の本を差し出す。
「これがこちらに届いていました。協会宛の著者献本です。なにか関係あるかもしれないと思いまして」
 邪魔だ、と堕姫縷の手を払おうとした君島は、その本の帯に目が釘付けになった。
── サイバー空間はミステリを殺す
 『退屈な全能者』のトップページに書かれている言葉だ。ひったくるようにして、その本を手に取るとものすごい勢いでページをくった。そして、警察のリストに『退屈な全能者』の主宰者が漏れていた理由を悟った。
「君島さん、なにをしてるんですか?」
 さきほどまで君島が作業していた画面をのぞき込んだ堕姫縷が目を見張った。
「だいたいの仕掛けはわかった。犯人の正体と仕組みもわかった」
 君島は本から目を離さずに答える。口元に笑みが浮かぶ。
「まだ二週間しか経っていません。なぜそんなに早くわかったんですか?」
「難しいことじゃない。肝心なことをみんな見落としていただけだ。それに、『退屈な全能者』は正体や仕組みを隠し続けるつもりなんかなかった」
「君島さん、私と話す時はわかりやすくストレートな表現を心がけてくださいますか。肝心なことをぼかしてらっしゃる」
 堕姫縷が足を組み直し、責めるような口調で言う。
「オレの話し方はもったいぶってるか?」
「そういう言い方がすでにストレートではありません」
「悪かったな。だが、まだわからないことがある。それがわかったら、全部説明する」
「進捗を報告してください。なぜ先延ばしにするんですか?」
「わかった。じゃあ、ひとつ重要なことだけ先に教えてやる。物的証拠のからくりだ。ねつ造じゃなくて、本物とされたものの方」
「やはりなにかトリックがあったんですね」
「おそらく出てきた物的証拠は本物だ。だが、正しい使われ方をしていない」
「正しい使われ方? どういう意味です?」
「物的証拠が推理通りの場所で見つかることが、正しさの証明になるという発想が間違っていたんだ」
「論理的には間違っていないと思います。なにが問題なんですか?」
「違うんだよ。とにかく、これから出かけよう。ああ、その前にちょっと準備しておこう」
「出かける? どこへですか?」
「『退屈な全能者』のところにさ」
「所在がわかったんですか? どうやって?」
「説明するより、実際に会うほうが早い。あんた警察手帳は持ってるよな。それを見せれば全部話してくれると思う」
「おっしゃることがよくわかりません」
 堕姫縷は不服そうだったが、君島は無理矢理連れ出した。

「なんでこんな車に乗ってるんだ?」
 曇り空の下、堕姫縷の車に同乗した君島は釈然としない様子だった。そのすぐ後ろをいかつい男ふたりの乗った覆面パトカーが着いてきている。堕姫縷の番犬らしい。
「いけませんか? 好きなんです」
 黄色のルノー・スポール・ゴルディーニはいやでも目立つ。なぜわざわざそんなものに乗るのか君島には堕姫縷の気が知れない。すっきりした柑橘系の香りに気づいた君島はお似合いの傲慢だと思う。
「好きなんだ。じゃあしょうがない」
「君島さん、犯人に頼みたいことがありますので、あらかじめお話ししておきます。当方の特別な事情に関わることです」
「なんだ?」
 堕姫縷の話を聞いた君島が唖然としているうちに、車は東京の郊外の多摩川に近い住宅街のマンションに着いた。

 十二階建ての瀟洒なマンションに着くと、君島はオートロックの入り口で部屋番号を押した。
「はい?」
 訝しげな声がインターフォンから聞こえてきた。
「オレはサイバーセキュリティコンサルタントの君島。隣にいるのはインターネット安全安心協会の人だ」
 インターネット安全安心協会の人と言われた堕姫縷は君島を凝視した。
「ああ、なるほど。そういうことですか」
 落ち着いた声が帰ってきて、扉が開いた。堕姫縷は狐につままれたような表情で開いた扉をじっと見ている。
「行こう。閉まっちまうぞ」
 君島に促されて、あわてて屋内に入った。番犬は、外で待つ。

 部屋の住人は、落ち着いた雰囲気の初老の男性だった。リビングに通された君島と堕姫縷が並んでソファに腰掛けると、部屋の主はその向かいに座った。大きな窓からカーテン越しに差し込む光が、部屋を明るく照らしている。君島は、いったい家賃はいくらなんだろうと考えた。
「古谷野肇です。なんのご用件でしょう?」
 部屋の主は、見事な銀髪を軽く撫でながら君島に訊ねた。
「あんたが、『退屈な全能者』だよな。このへんで止めてくれないと警察が困るらしいんでさ。止めに来た」
 君島は間髪入れずに答える。あまりの即答ぶりに、堕姫縷はあっけにとられた。
「……ずいぶんな決めつけで、しかも自信がおありなようだ」
「あんたのニセ推理サイトを潰してほしいって依頼を受けてのこのこ出てきたんだ。行きがけの駄賃にやってやろう」
 君島がそう言うと、相手の男はかすかに笑った。
「あんたは、ある目的のために変わった仕掛けを思いついた。普通の人間なら、実現しようなんて考えない危険で手間のかかるアイデアだ。幸か不幸かあんたには、実現に必要な金と時間と技術があった。
 まず、ソーシャルネットワークおよびインターネット上の情報を包括的に収集、分析できる監視システムを開発した。そしてそれをベースにして、未解決事件を見かけ上の解決に導く仕組みを作った。
 ”見かけ上”ってところが大事なんだ。なぜなら、警察が真相と犯人をつきとめることができなかった未解決事件なんだから、普通にやっても解決できない可能性の方が高い。これといった物的証拠もない。ソーシャルネットワークを通してできることは、動機の解明と、動機があってアリバイのない人物の発見までだ。あんたがすごかったのは、それだけあれば決定的な物的証拠は出てくる確率が高いと判断したところだ。ついでに言うと、推理の内容が真相から遠ければ遠いほど物的証拠の出てくる可能性は高くなるはずだった。そして、あんたは『退屈な全能者』というサイトを開き、推理を公開しはじめた」
「そんなにうまく行かないでしょう。一歩間違うとサイトが炎上して、名誉毀損で訴えられて自滅ですよ」
 古谷野は余裕の笑みを返す。
「そうならない自信があったんだろ。あんたがやったのは逆だ。事件を解決する結果として犯人を見つけたんじゃなくて、犯人をでっちあげやすい事件を見つけてたんだ」
 堕姫縷が、ぎょっとして君島を見た。
「……なにをおっしゃってるんでしょう?」
「じゃあ解説してやろう。たとえば如月小学校死体遺棄事件だ。この事件で犯人を特定する決め手となったのは、『パチこれ』の熱心なプレイヤーであること、なんらかの理由でぎりぎりまでイベントに参加できなかったこと、休校となったイベント最終日にクリアしていること、被害者と同じ財布を持っていることだった。サイトに書いてある推理の過程を読むと、なるほどと思ってしまうが、あれは全部逆だ。あの順番で推理したわけじゃない。
 まず、最初に『パチこれ』イベントクリアのために人を殺すという動機を思いついた。この動機に当てはまるヤツはたくさんいた。日本国中で百万人以上がプレイしてる『パチこれ』だ。中心となっているプレイヤーは十代から二十代前半。イベントは頻繁に開催されているから、全部クリアできるヤツなんか滅多にいない。学校や受験や塾があるからな。病気になるヤツだっているだろう。でも休校になれば、これ幸いとイベントに参加するに決まってる。つまり、いかにももっともらしい前半の推理だが、その条件に当てはまる子供の数は少なくない。決め手の財布だって、人気キャラの財布を持ってるヤツくらいたくさんいるだろう。
 犯人である全ての条件を満たした候補者の中で、もっともインパクトのある形でそれを証明できるヤツが容疑者に選ばれた。推理の決め手になったのは兄貴の生放送だが、犯人の家族がたまたまそんな生放送してたなんて偶然があるわけない。家族が滅多にないようなことをしていたから、犯人に選ばれたわけだ。真犯人という可能性もあるかもしれないが、根拠になるようなものはなにもない。付け加えると、被害者が殺される前の生放送でも容疑者がその財布を持っているのが写っていた」
「しかし、犯人のものとしか思えない物的証拠もありました。君島さんもあれは本物とおっしゃったはずです」
 異を唱えたのは堕姫縷だった。
「まあ、待て。その前に説明しなきゃならないことがあるんだ」
 君島は堕姫縷を制して説明を続ける。
「あんたが作り上げたのは、真相を明らかにして犯人を見つけるシステムじゃなく、動機を設定するとその動機に見合う未解決事件と、犯行可能な人物を見つけ出すシステムなんだ。いろいろな動機を考えては、その動機に見合う条件を設定してぴったりはまる未解決事件を探した。例えば、離婚協議中の女性の引っ越し先が続けて事件に見舞われたっていう条件で見つけ出した未解決事件が、練馬一家殺人事件だ。『離婚して家を出ようとする妻の引っ越しを邪魔する』という動機で、犯人は殺人と放火を行ったことにした。どんな突飛な動機と条件だって日本全国を対象に検索すれば合致する人物が見つかることもある。見つからなきゃ違う動機を考えればいい。結果だけ見た連中は、『ありえない動機だが、偶然の一致にしてはできすぎている。これが真相なんだろう』って思うという仕掛けだ。
 そして最大の罠は物的証拠だ。あんたが解決した一連の事件を調べていくと、後に解決したものの方が物的証拠がそろっていた。推理の精度が上がったせいでも、あんたのサイトを見るヤツが増えて物的証拠を見つけやすくなったせいでもない。どの事件も警察がさんざん調べてなにも見つからなかったものばかりだ。そんなことで見つかるはずはないんだ。本物の証拠を持ってたヤツが、あんたの推理通りの場所に証拠を置きに行ったと考えた方がしっくりする。
 あんたは真相とは違う推理をして、それを見た真犯人が他人に罪をなすりつけるために隠し持っていた物的証拠をこっそりと置きに行く。最近の事件ほど、より多くの物的証拠が見つかっているのは、『退屈な全能者』が有名になって、その推理のとおりに証拠を置けば他人に罪をなすりつけられると未解決事件の真犯人たちが気がついたからだ。あんたがすごかったのは、動機をでっちあげて、それに合うアリバイのない人間を犯人と指摘すれば、必ず物的証拠も出てくることを見抜いていた点だ」
 君島は、そこで言葉を切った。堕姫縷は君島と古谷野の顔を交互に見る。
「それが『退屈な全能者』の正体なんですね」
 確認するように堕姫縷がつぶやくと、古谷野はうなずいた。
「君島さん、ありがとうございます。あなたは理想的な探偵役だ。だが、ひとつ大事なことを見落としている。あなたなら気がつくと思ったんですがね」
 古谷野は、立ち上がると窓の外へ目を向けた。いつの間にか、空を覆っていた雲は消え、晴れ渡っている。
 堕姫縷は君島の横顔をじっと見る。見るな、と君島は頭をかいた。大事なことがなにかわからない。なにかが頭に引っかかっているが、それがなにかわからない。
「動機ですよ。『退屈な全能者』は真犯人の動機を次のステージに上げたんです」
 古谷野が楽しそうに笑うと、君島は険しい形相で顔を上げた。
「『退屈な全能者』で取り上げてもらうことを前提に人を殺すヤツが出てくるっていうんだな。如月小学校死体遺棄事件は、その最初のケースだったんじゃないのか? あれは初めての『超可能犯罪』条件下の事件だった。『超可能犯罪』で殺人を行い、『退屈な全能者』に推理してもらえば犯人は安全だ」
 もっとも危険な仕掛けだ。『退屈な全能者』をうまく利用すれば誰でも完全犯罪を行うことができるようになる。古谷野の本が出回って、そのことが知れ渡れば同じようなサイトを始めるバカもたくさん出てくるだろう。手が付けられない状態になる。
 堕姫縷はすぐには意味がわからず、君島と古谷野の顔を交互にした。古谷野は堕姫縷の様子を見て満足そうだ。
「素晴らしい。世の中には『超可能犯罪』の条件が成立している場所がいくつもあります。昔は地元の限られた人しか知らなかった『超可能犯罪』を行える場所が、インターネットによって簡単に遠隔地の人にも共有されるようになった。『超可能犯罪』は犯人を特定できない犯罪です。『退屈な全能者』に取り上げてもらい、推理の通りに証拠品を置けば他人が犯人になってくれる。日本のどこかにある『超可能犯罪』可能な場所、アリバイのない人物、意表を突く動機、物的証拠を持ち寄るインターネットを通じた匿名同士のリアル協業ミステリ。もう誰もミステリ小説なんか読まなくなる。誰でも簡単に完全犯罪を行えるんだ」
 古谷野は興奮で頬を赤らめた。
「あんたみたいなヤツと見ると、昔の推理小説はよかったって思うよ。だって事件も犯人も探偵もフェイクじゃなかった。あんたときたら全部フェイクで固めてやがる」
「違いますよ、君島さん、ミステリというのは、作者が読者をいかにうまく騙すかというゲームなんです。よく考えれば、もっといろいろな可能性があるはず。でも、そこまで考えさせないようにしてます。叙述ものなんて最たるものでしょう。山中の洋館? 絶海の孤島? ありえない設定でやっと延命している。リアルから乖離したおとぎ話に過ぎない。最近の警察小説なんか、しきたりと権威に呪縛された世界を描くマジックリアリズムだ。ミステリじゃない。『退屈な全能者』こそミステリの醍醐味を体現している。リアルの世界に構築されたサイバーミステリ生成装置『退屈な全能者』が作り物のミステリを殺すんです。サイバー空間が日常生活に融合し、確率論的犯罪と確率論的推理が可能になった段階で決定論的探偵は用済みになったんですよ。もはや犯人が誰かなんて重要じゃない。素敵な物語を紡ぎ出す装置があればいいんです。だから物語を作るために殺人を犯す人間だって出てきてくるんだ。君島さんならわかりますよね」
「あんたの動機は、昔ながらのミステリが存在意義を失ったポンコツだってことを周知するために、サイバーミステリの枠組みを使って旧来型のミステリを殺したかったんだ」
「おっしゃる通りです。すでに調査済みと思いますが、私はサイバーミステリを中心に書いていた作家です。絵空事で他にいくらでも犯人がいそうな小説を書くミステリの連中は、私の小説を読みもせずに陳腐化する技術の話題に頼ったハッカー小説とけなした。実際、サイバーミステリを書いていた作家にも問題はあった。ハッカー、サイバーテロ、電子通貨、コンピュータウイルスを小説の主題におく必要なんかないのにせっせとそんなものばかり書いた。我々のリアルな日常を描けば、それがそのままサイバーミステリになるんです。『退屈な全能者』を見れば、それがわかる。本当のサイバーミステリを知らない連中の鼻先に、ミステリの死体を突きつけたかった。陳腐化した旧式ミステリは、サイバーミステリの提示する新しい日常の中では死体も同然ってことを思い知らせてやりたかったんですよ。おかげさまで、うまくいきました。この復讐の仕掛けを暴くのは、日本に存在しない私立探偵や、泥臭い刑事ではいけなかった。だから私は探偵役も吟味しました。君島さん、あなたは理想的な探偵役を演じてくださった。失礼とは思いましたが、いままでのやりとりは録画してあります。後で編集してネットに流せば私の計画は成就する」

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