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名前

*注意:内容の半分モヤモヤさせると思う*


「いちまつ」と呼ばれるようになって、人生の半分以上経つ。

当時高校生だった私は、劇団へ入団し、初舞台の時にはしっかりとした活動名が欲しくて「市松美琴」という名前を作った。

本名で呼ばれること自体抵抗があった私は、自分が名付けた名前で呼ばれることの方が誇らしかった。

何故本名に対して抵抗を感じるようになったのかというと、小学生の頃から名前でかなりイジられ、結婚するまで続いたから。

「名前=私」なのに、イジる人からは別の人を連想するらしく、「名前=私は両親の子ではなく、他人の子、もしくはその人の親戚」になるらしい。
当時かなり言われて、幼き頃はかなり腹が立ったが、他人からは別にそれだけのことで不快に思う方がおかしいらしい。
不快だ。

何故人の名前を馬鹿にするのだろう?っという疑問とモヤモヤな気持ちは未だに晴れない。
あだ名呼ぶ感覚なんだろう。
「嫌だ」「やめて」と言っても嘲笑う。
伝わらない。
分からない人は本当に分からないのだと諦めた。

だから、自分が名付けた名前で呼ばれることが誇らしく、私の人生は本名より「市松美琴」であり、「いちまつ」の名で生きてきた。

名義を分けるようなってきたのは、自分の活動範囲(やること)が増えたから。

役者としては「市松美琴」
裁縫では「チクチク本舗」(屋号かな?)
舞台作品の脚本や演出とかは「いちまつ」
歌を歌う時は「山本家のIchimatu」
そこから本名だったり、旧名だったり。

ああ、こうやって文字として起こすと名義が多いなと実感するけども、基本「いちまつ」には限りない。

以前本名でお仕事をしに行った時、私の活動を知っている人がいらっしゃったので、「本日は本名でお仕事させていただいておりますので、宜しくお願い致します。」と伝えたが、名義が多いとクレームが入り(それは申し訳ない。)、挙げ句の果てに名前を馬鹿にし遊び始めた。

人様の名前で遊ぶってなんだ!?あ!?っと当時はかなりショックで、幼い頃の件もあってか「やめてくれ」と伝えても「伝わない相手」だと理解した瞬間、怒りと悲しみと悔しさから真顔でその場を立ち去った。

あんなに誇らしかった名義が、この一件で「名前」を汚されたと感じてしまった。

月日が流れ…コロナ禍と妊娠が重なり、表現活動もしなくなり、「いちまつ」より「本名」で呼ばれることが多い生活を送っていた。

「いちまつ」はもういないんじゃないかと。
作品作りもしていないし、消えてしまったと言っても過言ではないかと。何も呟くこともないし。
そんな感情が堂々巡りで自分の首絞めつつ、忙しい日常生活を送っていた。

そんな中、先日久しぶりに「いちまつ」という名前をたくさん呼ばれる機会があった。
なんだか懐かしく感じた。
その後も心揺さぶる出来事があって、そのおかげで、「あ、私って「いちまつ」なんだ」って。
此処にいるんだって。
いちまつという存在を思い出せた。
数年もの間「名前」にこびりついた穢れが徐々に消え失せた。

保育園の先輩ママさんが言っていた。
子が生まれて、周りから自分の名前で呼ばれなくなってすごく辛いって。自分がいなくなっちゃったような気がして。だから○○ママじゃなくて、「本名」で呼んで欲しいんだ。と。

ああ、そういうことか。
私もこの感覚に近かったのかもしれない。っと今この文章を書いてて気づいた。

2年半前に娘が生まれた。
私は「名は宝」だと思うので、夫婦で一緒に考えた。親として最初の贈り物を送ることができた。

将来娘が、私のように名義を増やしたり、法で変えたり、そのままの名で生涯を終えるかもしれない。大きくなったら、好きにして良いと伝える。

ただ、私のように名で嫌な思いをしてほしくない。
伝えても伝わらない。あの歯痒い出来事を。
そればかりをただただ願う。

これまで何本か物語を作った。
物語の沢山の登場人物達の名前を考えた。
夫から名付けに対して「名前には意味がある」と渇!を入れられることもあった。
それだけ名前は大事なんだと。

これからも「名前」に対して敏感だし、だからこそ「いちまつ」を大切にしていきたい。

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