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アルコール依存症の父と暮らしていたときの自分

数年前、アルコール依存症の父と暮らしていたときのわたしは、自分はすごく弱い立場にあると感じていた。

まだ学生で、父とのことで悩み苦しんでいた過去の自分。そこから見たいまの自分は、きっと強者に写るだろうなと、ふと思った。ここでいう強者は、当時の自分が「周りと自分は違うな」と思っていた「周りの人」のこと。自分と周りの人との間に自ら線を引いていたので、家族内だけで抱え込まない方がいいんだと気づくまでには時間がかかった。

あのとき、自分が線引きしていた「周りの人」に、いまの自分がなっている。そんな感覚がある。他人事みたいな顔で日々をやり過ごしているわたしを「それでいいの?」と過去の自分が小さく責めてくるので、自分のために書いてみる。

父と暮らしていた頃。子どもは親の面倒見るなんて絶対じゃないと思った

わたしが中学生のとき、父がうつ病とアルコール依存症になった。はっきりと依存症の診断を受けたのは、自分が高校生の頃。力での暴力はほぼなかったけど、家でのモラハラ発言やいやがらせみたいな行動は日常茶飯事だった。

わたしが大学4年生の頃だったか、一番ひどいモラハラを受けていた母親が家を離れて別居婚みたいな状態になり(わたしを置いて逃げたとかでは決してなく、いまも関係は良好)、しばらく父と二人暮らしのような生活をしていた。その頃は、まともにトイレもできず失敗して、その始末を自分がすることもあった。

初めて大きい方で失敗されたのは、自分が家にいるときだった。部屋から出て、廊下やトイレ、洗面所がなかなかにひどい状態になっているのに気づいた。母が家にいたときは、そういうことがあっても、わたしが知らぬ間に片付けてくれていたのだと思う。わたしは初めて目にした惨状に狼狽えてしまい、近所に住む伯母さんに助けを求めた。

せっせと進んで後始末をしてくれる彼女に「ごめんね」と言ったときだったか、「いいよ。(父からみた姉の)私には扶養義務ないからね、だから割り切ってできるから」という言葉が返ってきた。「子どもには親の扶養義務あるのかな……?」と聞いたら「あるんじゃない?」と言われたのを覚えている。

いまのわたしは「自分の生活を脅かされ、人生を奪われてまで、(お酒で生活ができなくなる)親の面倒を見る必要はない」と思っている。その理由はいろいろあるけれど、イネイブラーどういう言葉を知ったのが大きい。気になる人は検索してもらえたらうれしい。家族に依存症がいる人は、誰しもが通る道じゃないかと思う。

少なくとも、その生活を続けてたらわたしは間違いなく精神を病んでいた。どこにいても、突然泣けて涙が止まらなくようなことも何度もあった。

就活のランチで泣き出し、付き合ってた人にも感情ぶちまけて最悪だった

その頃のわたしは就活中で、先の出来事の翌日には、企業の社員さんとランチの予定があった。ランチを終えて「内定まだ決まってなくて……」と話していたら突然涙が止まらなくなってしまい、社員さんを驚かせた。家の事情なんて話せる訳もないし、就活決まってないしで、ギリギリの精神状態だったのだと思う。

さらに最悪だったのは、それを付き合っていた彼にぶつけて追い詰めてしまったこと。おそらくそれも理由のひとつになって、別れた。とにかく誰かに受けとめてほしくて、でも話せる人がいないから、その全部を彼に向けていた。いかに自分がつらい思いをしてるかを知って、そんな自分を肯定してほしい。そんな思いで甘えてしまっていた。

父が入院して、生活保護と介護を真剣に考えた日

別の日、父が過度の飲酒でグッタリして病院に運ばれた日があった。そして、そのまま意識障害で入院。寝てたり起きてたりはするのだけど、まともな会話ができなくなった。

お医者さんには、もしこのまま元に戻らなかったら、生活保護になるだろうと言われた。さらにそのときは、父の介護も必要になるとのことだった。

もし飲酒のせいでなく病気になったのなら、介護をするつもりにもなったかもしれない。でもそういう訳じゃなく、父がこうなってるのはお酒のせいなのだ。依存症の父の世話をするために、働き始めの20代の時間を捧げて生きていくことを思ったらひどく絶望した。

でも、そのまま絶望しきることはなかった。父はちゃんと意識が戻り、ご飯を食べられるまでに回復したのだった。お陰で、生活保護になることも介護をする事態も避けることができた。

最初は意識障害でまともな会話もできず、喋ったかと思えば「ファブリーズで核爆弾」とか意味不明なことを口走っていた父。そこから、ちゃんとコミュニケーションを取れるようになった日には、安心なのかうれしさなのか涙が出た。

自分だけが弱者だと思い込んでいた

わたしはその後、都内で一人暮らしを始めて家を出た。その後もなんやかんやあり、父は昨年、家で亡くなった。

いまの自分は、アルコール依存症の父と暮らすストレスもなければ、モラハラや暴言、粗相の始末に泣くこともない。突然、介護や生活保護の必要性に迫られてオロオロすることもなく、平穏な日々を送っている。

でも、お金も仕事もなく、実家も出られず、「誰の金で生活できてるんだ?」という言葉に無力感を植え付けられるように生きていたあの頃、自分は弱者だと思っていた。

自分は弱い存在で、お医者さんも、社会福祉士も、周りの大人、ときに友達でさえ、同じ場所にはいないと思い込んだ。多くのひとにとって他人事でしかないんだなとか、自分とは生きる世界が違うんだなと思って線を引いた。

でも、当時の「自分だけが弱い存在だ」みたいな感覚は、ちょっと違うかなといまは思う。

その理由は、強そうな人、もっといえばいろんなものを持ってるように見える人でも、ずっと幸せなわけじゃないと知ったから。誰しも、ときに大切なものを失ったり、悲しみに打ちひしがれたり、身体や心を病むことがある。絶対的に「弱い人間」も「強い人間」もいなくて、生きてる限りは強いときもあれば、弱いときもあるのだ。

「自分には父親がいないのに、あかねはいいじゃんと思っちゃった。なんでそんな風に言うんだろうって」父のことを話したら、そう言われたことがあった。誰しもが、心の奥底に何かしらを抱えて生きているのかもしれない。みんながみんな、いつも強いわけじゃない。


フリーランスで仕事をもらい都内で一人暮らしをしているいまのわたしは、おそらく、かつての自分が線引きしていた“強い側”の人間にいる。でも今、多少なりとも強く元気でいるからこそ、弱った人の助けになれることもあると信じている。

そして、あの頃の自分が勝手に「あなたとは違う」と線引きしてた人になるんじゃなくて、「わたしも弱ってたときあったよ」とか「自分もこうだったから大丈夫だよ」と伝えてその線引きを曖昧にできたら、あの頃の自分も少し救われるんじゃないかと思うのだ。書くことで何ができるか、まだ自信はないけど、その線引きをなくすことをやっていきたい。


追記
このnoteを読んでくれた大切なひとがシェアしてくれた動画を観て「当時の自分に観せてあげたかった!!」と思ったので載せておきます。こんな風に言ってくれる人がいるだけで、どれだけ救われただろうと思うし、やっぱり自分は、家族だけで抱える必要はないし、逃げても離れてもいいよと言ってあげられる人でいたいな。

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