見出し画像

たのしく生きることの凄さと尊さに気づいたとき

こんなことを自分で書くのは気恥ずかしいのだけど、少し前に、わたしのことを「いつも楽しそうなところがいいと思う」と言ってくれた人がいた。

自分としては、「いつも」は楽しくないのだけど、他者からはそう見えるのだろうか。誰かといるときはうれしくて楽しくなりがちだから、その人の前でだけ、いつも楽しそうに見えるのかもしれない。それでも、自分が楽しそうに見えるということを素直にうれしく思った。


数年前、とくに学生時代のわたしは、父親の精神疾患のことで悩んで悲観的になっていて、から元気のように「から楽しい」をやっていた。

もちろん楽しいことがなかったわけじゃないし、ときには存分に笑って過ごす日だってある。でも心の底には「自分は幸せじゃない」という前提が根を下ろしていて、それを打ち消すみたいに、本当の気持ち以上に笑い、楽しさを追い求めていた。そうしないと悲観が楽観を上回るばかりで、釣り合いがとれない感覚があった。

だからその頃は、「人生楽しそうだね」なんて言われても、心から喜ぶことはできなかった。どちらかといえば、安堵の気持ちだった。ちゃんと楽しそうに見えてるんだ、よかった。そんなふうに思っていた。

いまも悲観的な部分はあるとはいえ、当時のそれは、いまよりもっと厄介だった。その頃は、自分のいる環境を憎んだり、誰かをうらやんだりして卑屈になっていたのだ。両親と仲がいいらしい友人、幸せそうな家庭環境にいる友人に対しても、「あなたはいいなあ」「わたしとは違う」と心の中でうらやんでいた部分があった。

書きながら、自分のことを嫌いになりそう。その頃の自分は本当にひどかった。周りにいる多くの人が、自分より幸せに見えた。そして自分だけがつらくて大変みたいに可哀想ぶっていた。

でも、社会人になっていろんな人に出会うなかで、「つらい自分は大変、幸せそうに生きている人がうらやましい」みたいな感覚はなくなっていった。

いろんな人に出会って、視野が広がったのが大きかったと思う。みんなそれぞれのつらさを抱えて、それでも自分と同じように笑って楽しんで生きていることを知った。わたしには幸せそうに見えた誰かも、自分の知らないところで、悩んだり苦しんだりしている。自分だけがつらいなんて思い込みだった。

わたしはそれまでずっと、悲観しながら生きる人生の方が大変で、幸せに楽しく生きる人生の方がラクでうらやましいと思っていた。でも、そうじゃなかった。

人生を楽しく生きることのほうが、悲観的に生きることよりもよっぽど大変で、凄いことだった。

生きていれば、誰しもときにつらく苦しい場面に出会う。そこで「つらい」「かなしい」とその場に立ち尽くすことも、きっとある。ただ、そこでそのまま悲観的に周りをうらやんだり、文句を言ったりするのは簡単だ。

むしろ、それでもという気持ちで人生に希望を見出し、光を当て、楽しもうとする方がよっぽど凄くて尊い。いまはそう考えているから、幸せそうに見える誰かと比べてどうこう思うこともなくなった。


だから、つい先日「いつも楽しそう」と言われたとき、今度のわたしは心から喜ぶことができた。ときに「つらい」「大変」「無理生きられない」に出会っても、そこで立ち止まらずに前を向くことができているのかな、なんて。相手はそこまで言ってないけれど。

ある哲学者の言葉で「悲観主義は気分によるもので、楽観主義は意志によるものである」というのを聞いたことがある。定期的に悲観的になる自分の性質は変わらないだろうけど、人生を楽観できる強さも持ち続けたいと思う。

スキやコメント、SNSでのシェアうれしいです。ありがとうございます。いただいたサポートは、本、映画、演劇、寄席など自分の好きなものに注ぎ込みます!