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「いいね」の数では分からないもの

初めは、4年ほど前の留学中にひっそり始めたこのnoteだったが、ここ1年くらいでよく書くようになった。
そして、noteの更新をリア垢のストーリーズにたまに載せるようになった。

それまで私は、自分の良い部分を見せなくては、とか、書くなら誰かに何かが伝わるものや、問題提起になるようなものでなくては、と思っていたんだと思う。

でも、そんな余裕はなかった。

自己中心モンスター2人の襲撃で、今年の初めから働けなくなってしまって、休職した。

育った土地で、親と過ごさなければいけない閉塞感のあまり発狂しそうだった時期も、その後、知り合いのいない土地で孤独に再び働き始めた時期も、書かないことにはやっていけなかった。

初めてリア垢に載せたときは、2人から反応があった。

その2人が、私の文章が好きだと言ってくれたのは、嬉しいような恥ずかしくてこそばゆいような、不思議な感情だった。 

だけど、私は、読まれたいけど読まれたくない、とも思っていた。
こんな腹黒いこと書いていいかな。こんな愚痴愚痴言っていいかな。

noteでは、いいねをもらわない限り、どの記事を読まれたのか分からない。

だから、どの記事を読んでそう思ってくれたのか分からない。
自分の嫌いな部分が出ていない記事なのかもしれない。

無反応、というのは怖いのだ。

公開範囲を狭くしようか。書くことをやめようかとも思った。

でも書きたい。書かないとやってられない。

まあ、私の大きな独り言に、そんなに興味のある人も多くはないだろう。
読むか読まないかは相手が選ぶことだし、みんな忙しくていちいちチェックはしないだろうし。

そう開き直った。

気分が落ち込む時期は、自暴自棄になることもあった。全部記事にぶち込んだ。

気分が荒んでいるときは、いいねをもらっては一喜一憂した。少なくとも、知り合いじゃなくても、読んでくれたらしい人がいる。
ないと落ち込む。いいね目的で書いたものではなく、ただ感情を吐き出した記事でも。

そんなふうに振り回されていた。

でも気付いた。

いいね、で表せるのは、いいねを押した、という事実で、その中の気持ちはそれぞれ違う。

かわいいね、きれいだね、面白いね、それ分かる、というときもあるし、ただ惰性でいいねを押すこともある。

インスタの投稿をひとつひとつ高速でスワイプしながら、とりあえずいいねをすべての投稿につけている人も見たことがある。

年の瀬にかけて、久しぶりの再会が増えると、noteを読んでるよ、と言ってくれる人が増えた。

1個のいいねも嬉しいけれど、面と向かって伝えてくれた言葉はもっと嬉しかった。

ちゃんとそこに、読んでいる、実在する人がいるんだなと思えた。

いいねを押すことと、人の心を動かすことはイコールじゃない。

いいねボタンで測れないもの。それを見失うことなく、大事にしなきゃなと思う。

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