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全知全能の人

むかし、一緒に住んでいた人が全知全能になった。その人はとても頭のよい人で、もともと考え込むのがすきだった。長く考え込むことがよくあったけれど、そういうものだと思ってあんまり気にしなかった。ある時思索が一ヶ月以続いて、気がついたら殆ど寝ていなかった。それでも仕事にも出ていたし、寝ない以外は普通にみえた。

ある日突然、全知全能になった。
それはほんとうによくあるただの発狂というもので、境目を急に越えてしまった。それからは完全に狂気の人になって、その人の前には宇宙とか神とかがあった。外見は同じだけれど、中にはまったく知らない人が入っているみたいで、どうしていいかわからないまま一緒に暮らした。
相手の何もかもがわからないということは、すごくおそろしい、ほんとうにおそろしかった。正気に戻るのを願ったけれども、もう無理だろうとも思った。そのうちわたしに包丁を向けたり、外へ出て他人に迷惑をかけたり、結局真夜中にお巡りさんに連れられて精神病院に入院となった。

隔離室の柵のついた病室は、部屋というより檻だった。少し前までたのしく一緒に暮らしていた人をそんなところに置き去りにすることが、すごくわるいことみたいに思った。

しばらくして面会に行くと、檻の中で腕立て伏せをしていた。「なぜ腕立て伏せをしているのか?」と聞くと、「正気を保つため」と言っていた。狂人として檻の中に閉じ込められて、それでも正気をすこしでも保つためには、腕立て伏せをするのがよいらしい。「体を動かしていないとますます狂ってしまいそうだ」と言っていて、その通りだなと思った。そんな話を聞いていると世界のどこからどこまでが正気で、どこからが狂気なのか、うっかりわからなくなった。

結局、順調に隔離病棟から閉鎖病棟、それから解放病棟へと移り、そのうち退院になった。正直に言うと、本気でわたしを殺そうとした人と一緒に暮らすのはもう御免だなと思ったりもして、友達なんかにも止められた。何よりしばらくはとても怖かったけれど、わたしも半分以上はおかしいのだろう。狂気や包丁を向けられたことをすっかり忘れたように、またたのしく一緒に暮らしたりした。

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