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わたしが闘っている「強迫性障害」について

(※症状や程度は個人によって全く異なり、本記事の内容はあくまで歓咲個人のものであることをご理解いただければと思います。
また、症例を具体的に記載しており、同じ病気の方にとって「トリガー」となる可能性もありますので、閲覧の際はご注意ください。)

私は長い間「強迫性障害」という病気を患っている。
最近は名前も知れ渡ってきて「戸締りが気になる病気」と認識している方々もいるのかもしれない。
しかし、症状や内容は多岐に渡っており、決して戸締りや火の元だけで済まされるものではないのである。

強迫性障害の分類と、私が当てはまるもの

不潔恐怖と洗浄
汚れや細菌汚染の恐怖から過剰に手洗い、入浴、洗濯をくりかえす、ドアノブや手すりなど不潔だと感じるものを恐れて、さわれない。
加害恐怖
誰かに危害を加えたかもしれないという不安がこころを離れず、新聞やテレビに事件・事故として出ていないか確認したり、警察や周囲の人に確認したりする。
確認行為
戸締まり、ガス栓、電気器具のスイッチを過剰に確認する(何度も確認する、じっと見張る、指差し確認する、手でさわって確認するなど)。
儀式行為
自分の決めた手順でものごとを行わないと、恐ろしいことが起きるという不安から、どんなときも同じ方法で仕事や家事をしなくてはならない。
数字へのこだわり
不吉な数字・幸運な数字に、縁起をかつぐというレベルを超えてこだわる。
物の配置、対称性などへのこだわり
物の配置に一定のこだわりがあり、必ずそうなっていないと不安になる。

引用:厚生労働省ホームページ
https://www.mhlw.go.jp/kokoro/know/disease_compel.html

などの分類がある。
それでは私はどれに当てはまるのかというと、ここには載っていない「疾病恐怖」(病気なのではないか、病気になるのではないか、という恐怖)が主であるので、さっそくこの病気の多彩さが表れた。
他には上記の「数字へのこだわり」とは少し異なるが「縁起恐怖」(占い等に振り回される)というものも持っている。
「加害恐怖」は中学生のときにほんの一瞬だけ発症した。

次の章から、時系列順に症状の経過を記載していく。

小学5年生(疾病恐怖 ー ほくろについて)

小学5年生のとき、たしか情報源はテレビ番組だったかと思うが「悪いほくろもある」という話を親が聞きつけて「お腹にある大きいほくろ、形が変化したら直ぐに言ってね」と私に言った。
その日から私は自分のお腹にあるほくろが気になって仕方なくなった。
確かに他のほくろより大きい。

同じ時期、同級生が頭部のほくろの切除手術をした。
やっぱり悪いものなのだろうか。私も手術をしなければならないのだろうか。
でも病院に行きたいと親に言う勇気もなく、親もその後は特に何も言わなかったので、ただただ不安を感じるだけの日々を過ごした。

そうして小学6年生に進級したとき、近くの席になった女の子が腕に大きなほくろがあった。
私の比ではない、2㎝はあるものだった。
目ざとく見つけた男の子がそれをからかい、その子は「恥ずかしいんだからやめて」と言った。
恥ずかしい?怖いのではなく?なんで病気なのかどうか疑わないの?
私はその感覚の違いにかなり混乱した。しかし、それと同時に、心配が次第に薄れていった。
(後に念のため病院を受診したが、特に問題はないと診断された。)

小学6年生(疾病恐怖 ー 失明について)

別な記事でも記載したが、私は幼少期のうちから強い近眼だった。
漫画を読むのが好きだった私への警告のつもりだったのだろうが、親に「怖がると思って言っていなかったけれど、もう少しで失明するよ」と言われた。

眼鏡を作るために眼科に行ったとき、私がいない隙にこっそり医者にそう言われたのだろうか。
それはもう怖くて仕方なくなった。
周りの近眼の子たちは授業中以外は眼鏡を外しているし、失明の恐怖なんて全く感じていなさそうだった。
不公平だと思った。なぜ私だけ周りの子より目が悪いのだろう。

そして、ある日読んでいた雑学の本に「失明と近眼はメカニズムが異なるから、近眼が進むことによって失明するわけではない」という記載があり、ようやく安心した。

中学1年生(加害恐怖 ー 万引きへの不安について)

きっかけは覚えていないが、自分がふとしたきっかけに万引きをしてしまうんじゃないかと怖くなったことがある。
悪いことをしてしまったらどうしよう、そんなの怖い、悲しい、という気持ちにしばらく囚われていた。
これはいつの間にか消失していた。

中学1年生(疾病恐怖 ー 目に入った睫毛について)

目に違和感があって鏡を見たら、睫毛が入っていた。
どうしたらいいか分からず親に言ったら、濡らした綿棒で取ってくれようとした。
しかし、やはり目なので怖くて無意識に動いてしまった。
「動かないで!取れなかったら手術だからね!」と叱られた。
そうか、手術なのか、と怖くなった。

別な日に学校で、また目に違和感があって鏡を見たが睫毛は入っていなかった。
しかし手術は怖いから、本当に入っていないか何度も何度も鏡を確認した。
教室移動を待っていた友達が「もういいから!」と怒り出した。
ちっともよくない。睫毛が取れなかったら手術なのだから。

そのうち自力で睫毛が取れるようになったのと、睫毛は目薬や涙で自然に流れ出るということと、眼球の裏側まで睫毛が回り込むことはないと知って、気にならなくなった。

中学2年生(疾病恐怖 ー 緑内障について)

かつてテレビ番組で「視野がどんどん欠けていく恐ろしい病気」として緑内障が紹介されていた。
ある日、親が「明かりの周りに虹が見えたら緑内障らしいね」と言った。

それからは電球や電灯を凝視する日々が始まった。
虹が見えなくても、念のために何度も何度も確認した。
虹が見えた気がしたときは、確認のために違う電気を凝視した。

これはもう本当に怖くて仕方なく、親に「眼科に行きたい」とお願いして検査してもらった。
もちろん異常なしで、医師からは「神経質なお子さんなのかな?」と言われた。
神経質ではない、不安になる根拠はちゃんとあるんだ、と心の中で思った。

25歳~(疾病恐怖 ー 親への心配について)

いちど親が熱中症になり、体も弱いことがあって「親がまた具合が悪くなったらどうしよう」という不安が引き起こされた。
これは現在まで続いており、すぐにメールの返事が来なかったり電話に出なかったりすると落ち着かなくなる。

最も酷かった時期は、出るまで3回も4回も電話することがあった。
自分の仕事中だろうと電話してしまっていた。
友達との旅行先でも電話した。
家にいる時、親の存在を間近に感じて心配が膨らみすぎてしまい、息苦しくなって1泊の一人旅を定期的にしていたが、結局翌朝の朝食を食べたらすぐに帰宅していた。

「目を離すと心配だから実家を出て自立するなんてできない」と思っていた。
自立している子や結婚した子を親不孝だと思ったこともあれば、頼りない親のもとに生まれた私は普通の人生を望むことはできない運命なんだと嘆いたこともあった。
「強迫性障害」の診断がついている今になって思い返すと、このときの感情が最も「自分に病気の意識がない」ということを表しているなと思う。

やがて今の恋人と出会い、彼とデートしている間は不安感が薄れることに気付いた。
交際が始まってしばらく経った頃に私は転勤になった。
頑張れば実家から通える距離ではあったが、彼がいれば自立しても大丈夫という気持ちがようやく生まれて、30歳で生まれて初めて実家を出た。

今でも不安感は残っているし、熱が出たとか怪我をしたとかの話を聞くと1時間以上座り込んで動けなくなってしまうが、半日以上ベッドに潜り込んで「人生詰んでる、本当にもうどうしようもない」と繰り返し繰り返しネットに吐き出していた頃よりは改善されたと思う。

?歳~(縁起恐怖 ー 占いと、親の話をすることについて)

いつからか覚えていないが、私はタロット占いをかなり信じている。
意見が分かれそうな内容をTwitterに投稿しようとするときや高速道路を運転したいとき、今だったらいつもと違う店に行こうとするとき(感染リスクが気になるから)などに、タロットカードのイエス・ノーに頼ってしまう。
ノーのときは日を改めるか、諦めきれないときは時間を置いて占い直す(当日の占い直しは本当は良いことではありません)。
いずれにしても、イエスになるまでは行動できないのである。

また、親についてマイナスな内容や感情を話したり書いたりすることが怖い。
そのことによって親に悪いことが起きてしまったらどうしよう、という考えがあるからだ。
この記事自体も私の強迫性障害と親とが密接な関係であると明らかになってしまうため、勇気を出しながら書いている。

30歳~(疾病恐怖 ー 発熱について①)

その日の数日前から喉がイガイガしていて、喉風邪だろうと思っていた。
朝、300m先のコンビニに行くのが妙に億劫に感じて行くのをやめた。
出勤後は何ともなかったが10時過ぎから急速に体が怠く、熱く、体の節々と頭が痛くなって早退した。
じっとしているのも辛かった。

5月の終わりだったので早めの夏風邪だと思ったのだが、帰宅して体温を測ったら38.7℃だった。
慌てて病院に行ったら季節外れのインフルエンザと診断された。
イナビルのおかげで一晩で解熱し、一週間の療養で復帰した。

しかし、完治したと思った直後に遊びに行ってしまい、帰宅後に念のために体温を測ったら37.8℃になっていた。
何かの間違いであってほしい、何でまた熱が出るの、と怖くて眠れずに一晩中体温を測り続けた。
朝になっても変わらず、また仕事を休んで寝ようとしたものの眠れず、夕方受診して抗生物質を処方されてようやく解熱した。

その時から、時々体温を繰り返し測るようになってしまった。

30歳~(疾病恐怖 ー 発熱について②)

それまでは「何度も体温を測ってしまう日」が数か月に1回あるぐらいだったが、コロナ禍が始まってからは一気に悪化した。
基礎体温計でも脇下体温計でも非接触体温計でも、何度も何度も測った。
右側でも左側でも測った。

なんとなく体が火照っていると感じたときはもちろんのこと、何も感じない時も測った。
万が一熱があった場合、それに気づかずに家事などをすると容体が悪化してしまうと思ったからだ。

実際に高めの体温が出てしまった場合は、逆にどうしたらいいかわからずパニックになった。
頭の片隅に残っていた理性で「何度も測ったことによって体温が高くなっているだけでは」という考えも持っていたからである。
普通にしていていいのか、寝込むべきなのか、判断ができなかった。
かと言って寝込むことは「取り返しのつかない恐ろしいこと」という感覚があった。

感染が怖く、職場以外の行き先もスーパーとドラッグストアのみに絞っていた。それも店舗を限定し、同じ系列のドラッグストアでも違う店舗には行かなかった。
コンビニにすら入らなかった。
時折どうしても書店に行きたくなり、タロットカードでイエスと言われた時だけ行っていた。

また、通勤時間が車で片道1時間以上であることと仕事のストレスとが重なった時期であり「こんなに過酷な状況なのだから、いつ体調を崩してもおかしくない」と思っていた。

出勤したら疲れて発熱するのでは、買い物に行ったら疲れて発熱するのでは、散歩に行ったら疲れて発熱するのでは。
とにかく何か行動をした後は、何度も体温を測って発熱していないか確認した。
前の項目で述べた突然の発熱がトラウマとなっていた。

さらに、幼少期に「眠い」と泣き出して昼寝し、起きたら38℃の熱があったことも思い出してしまい、昼間に眠気を感じると恐怖を覚えるようになった。
土日に昼寝をすることは時々あったが、それ以降は疲れていても眠くても夜になるまで怖くて一切休めなくなった。

31歳(ようやく病識を持って心療内科を受診したことについて)

前述の一連の行動や精神状態については「コロナ鬱」だという自覚はあったため、改善方法がないか調べていた矢先に「強迫性障害」の記事に行き当たった。

あれもこれも、幼少期のあの心配事も、全部当てはまる。
まさか自分が病気だったなんて。
驚きと同時に「病気であれば改善法があるのではないか」と思い立ち、当事者の方の体験記等を読み漁った。

改善法としては、薬物療法のほかに行動療法として「怖くてもその行動を我慢する(そうすれば、必ず不安が軽減していく)」というものが主要なもののようだった。
私は縋るような思いで「体温を測ることを我慢する(朝の基礎体温は可)」
を始めた。

体温のバイオリズムで火照りが出てしまったときに何度も失敗したが「時間が経てば落ち着く」「インフルエンザになったときのような怠さはない」と自分に言い聞かせ、アプリで記録を付けたりコミュニティで報告したりすることによって、これを書いている今日現在で3か月近く我慢が継続できている。

こんなに長年患っていた病気だったので自力だけでの改善は難しいと考えて、思い切って心療内科も受診した。
私の主訴を聞いた医師からはあっさりと診断が下りた。

今は薬も処方されて以前よりは気持ちが安定している時間がある。
とはいえ4時間近くかけてこの記事を書き上げたので、疲れて体調を崩したらどうしよう、という不安が一瞬頭を過るぐらいにこの病気は隙がないのである。

周囲にはなかなか理解してもらえない「強迫性障害」について、同じように苦しんでいる方や私の孤独感がこの記事を通して少しでも癒えればと願う。

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