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自己肯定感があまりにも無いという話

自己肯定感が無い。
「自分を好きになれる本」「自己肯定感を上げる本」の類は何冊も読んだ。それでも駄目だった。

そもそも、前提として「私のような人間が自己肯定感を上げてしまうのは思い上がりであり、周りに迷惑を掛けてしまうのではないか?」という不安があるからである。

私の自己肯定感の無さを知っている人が、褒めてくれた際に「だから自信を持って」という言葉を添えてくれることがある。
「褒めてくれた人に失礼だよ」と言われることもある。
だが、私にとっては「私を褒めるような”誤った感覚”を持ったままでは可哀想だから、その誤りを正さないと」と思えど、自分を好きになろうとは思えないのだ。

今日はそんなお話。

最近診断が下りたが、私には発達障害がある。

小学生に上がっても蝶結びも出来ず、鉄棒も出来ず、自転車にも乗れず、運動会で皆と同じように動くことも出来ず、泳ぐどころか顔に水を付けることも出来ず自分一人だけ浅いプールで練習し、コミュニケーションの取り方も「自分の言うこと・やることは皆が注目するはず」という前提に立った奇異なものだった。

「この子は学歴を付けさせないと、将来生きていけない」と案じた両親により、ずっと勉強させられていた。
自ら進んで勉強したことはない。
私にとって勉強とは「私という人間が他の人と同じように生きていくために、他の人よりとてもとても多くこなさなければならないもの」だった。
眠る時間以外はずっと追い立てられていた気がするし、常に疲労困憊でいつまでも寝ていられるのに起こされるから、ずっと義務感と眠気に支配されていた。

いわゆる「普通の子」が経験するような思い出や青春は殆ど味わわないまま大人になったが、定職に就いて自分の力でどうにか生活できている今となってはあのような生き方をする他になかったと思うし、両親の判断は正しかったと思う。

母と喧嘩をすると、いつも私が浅はかで冷酷であるという結論で締めくくられた。
私の考え方や選択は全て間違っていた。
自分で選んで買った服は母に返品させられた。
私が選んだものを好きだと言ってくれた友達もまた、センスが悪いのだと母に教わった。
「コミュニケーションを間違わないように」と、20歳ぐらいまではブログの記事と友達や彼氏に送るメールの何割かは母が書いていた。
あの時の皆さん、時々口調が変わっていたのはそういう訳です。
(そうしてこのようなエピソードで母を悪く書くことに酷い罪悪感がある。私が間違っているだけなのかもしれないから。)

そして32歳の今、経験や選択の機会が極端に無かったことは仕方ないとは言え、何も考えられないし「ポストが赤いのは私のせい」という勢いで自分を認められない。

誰かがネットでニュースの感想を述べる。
感想を何も抱かなかった私は責められている気分になる。
職場の人が仕事でミスをする。
私が自分の仕事を相談して疲れさせてしまったからだと申し訳なくなる。
誰かが何かを私に話す。
何を言っているのかうまく理解できないけれど、私以外の人が話す内容なのだからきっと正しいのだろう。

私は私を認めてもいいのだろうか?
誰か正解を教えて欲しい。

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