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東大生の「自信」とは。

こんにちは。東大いちねんせいの氷です。
今回はいささか不遜なタイトルになってしまいましたが、内容としては謙虚に書いていければと思っております。


私が東大に入れたのは、ただの運だった。

昨今、「完全に個人の努力の成果とされてきた学力もまた、遺伝や環境に影響されるところが大きい」という見方が広く知られるようになっている。

例えば、学力に対する遺伝規定性(遺伝子がどれくらい実際の学力のばらつきを説明しているかを示す割合)は60〜70%になることが科学的に証明されている。
そして悲しいことに、残りのかなりの部分もまた、子ども自身が選べない環境の影響として説明されてしまうのである。具体的に言えば、早生まれの子どもは遅生まれの子どもと比べて偏差値が有意に低いことがわかっているし、親の経済状況を理由に生じる、子どもが学校外で利用できるサービスの質・量の差異は学力の差に直結する。

結果として、「一生懸命努力している不利な条件下の子どもが、大して努力していない有利な条件下の子どもに負ける」ということが起こりうるのである。

もちろん、不利な環境下でも遺伝的にIQが高かったり有利な環境下でもIQが低かったりと、子どもの持つ条件は一概に二分できるものではない。
ただ確かに言えるのは、「日本=努力すれば必ず報われる社会」というのは幻想であるということだ。


ここで、話の主人公を東大生に持っていこう。

東大に入ってみるまで、東大生はどんな生き物なのかということを、私もよく知らなかったというのが実情である。
世間のイメージとしては、「頭が良く、基本的にガリ勉。手に負えないような変人も混じっている。」といったところだろうか。(たぶん。)
確かに、東大入学後に出会った数少ない知り合いたち(サンプル数はかなり限定的ではあるが)を見ても、非常に優秀でコツコツ努力していくタイプの人が多いとは感じる。
だが、東大生だってテストでは程よく手を抜くし(手の抜き方が上手な人はそれでも良い成績をとっていく)、「周りが東大を目指していたから」というノリで東大に入ってきた人も予想以上に多かった。そしてそうした彼らのバックグラウンドには、経済的に裕福な家庭の出身であったり、都市部(特に東京圏)の出身であったりといった「有利な」条件群も明らかに見え隠れしていることが多いのである。(YouTube一本で合格しました、なんて人もいない訳ではないが。)

東大の女子率が低いのもまた、「女の子がわざわざ東大を目指さなくても」「女の子が東大に行ったって幸せになれない」といったジェンダーバイアスのかかった社会の価値観が一因であるとも言われている。(2019年の東大入学式において注目を集めた上野千鶴子氏の祝辞でも言及されており、記憶に残っている方も多いだろう。)

東大生全員がこうした「有利な」条件ばかり持っている訳ではないが、東大生の多くはレースで一生懸命走りながらも、フライングを許されていたり、追い風に助けられていることは確かなのである。

ここまで来て、違和感をお持ちになった方もいるかもしれない。
こいつは、自分が東大に入れたことをただのラッキーだったと言ってるのか、と。
冒頭にこっそり書いておいたが私も東大生なのである。
煽っているようにも思われるかもしれないが、結論から言えば、自分が東大に入れたことはただ単にラッキーだったからだと私は考えている。
ガチャを引き当てただけなのだ。
それでは、なぜ私がこんなことを堂々と言えるかを、続けて書いていこうと思う。


元から自信満々な人に、失う自信なんてない。

別に私は、東大に合格した時点からこんな考えを持っていた訳ではない。
試験当日に体調を崩さなかったこと、電車が遅延しなかったこと、相性のいい問題が出たことくらいは「運が良かったな」と感じていたが、合格したのは自分がそれなりに勉強してきて、その成果が出たからだと信じていた。

しかし、コロナで外出できない間にいろいろ勉強するうち、自分のいた環境が当たり前ではなかったことを、私は改めて思い知った。小さい頃から本が身近にあったこと、クラスメイトみんなが黙って座って授業を受けられていたこと、家では宿題を見てくれる人がいたこと、大学進学が前提の高校に通っていたこと、「あなたはやればできる子だ」と信じてもらえていたこと

そうか、私は努力したから東大に合格できたのかもしれないが、努力で左右できるのは所詮わずかな偏差値くらいで、いつしか大学進学を目指していたことや志望校に受かるまで学力が伸びたことは、環境による部分が大きかったんだな。思いがけないくらい、すとんと腑に落ちた感覚があった。

そしてちょうどそんな時に見かけたのが、東大生らしき人物による「よく『恵まれている人は環境のおかげだ』と言われるけれど、自分のしてきた努力を否定されたら、私たち東大生は何を根拠に自信を持てばいいのか」という趣旨のツイートだった。
リツイートもいいねも、バズるとはいかずともそれなりの数を獲得していた。

しかし、これを読んだ私は正直、うん?と思った。
頑張ってきたことを否定されたら悲しくなる気持ちはよくわかる。
だが、私たちが東大に入れた理由の100%が努力のおかげではあるまいに、それを指摘されたくらいで自信がなくなってしまうのか。
東大生って実は、吹けば飛ぶような自信しか持っていなかったのだろうか。


私は、違うと思う。
「自信が持てない」と感じているように見えて、東大生は自信を持っている。
なぜそんなことを言えるのか。

答えは明快だ。
東大生は、絶対に東大を受験しているからである。

記念受験を除き、「絶対に落ちる」と思って東大を受験するバカがどんな世界にいるだろうか。どんなに望みが薄くても、誰しも「1%でも自分には東大に受かる可能性がある」と信じて受験しているはずなのだ。

確かに、成功体験を経て自信は積み増しされていくものである。
だったら、私たち東大生が自信を持つのは自分の数%の努力に対して、というくらいが妥当だろう。
というよりも、元々「自分は東大に受かるポテンシャルがある」と思えるくらいの自信がある人間が、自分のあげた成果の大半が環境のおかげだからといってどうして自信を喪失するだろうか。そんなはずはない。


「東大生」という看板と付き合うために。

そして、前述したようにレースの中でフライングを許され、追い風に助けられてきたからこそ、私たち東大生は「自分が自信満々な人間である」ことに自覚的になる必要がある。そう、自戒をこめて思う。

なぜなら、私たちは東大生であるというだけで、加害性を持ちかねないからだ。
例えば、ある東大生が「私は高校でビリだったけど、猛勉強して半年間で偏差値を20上げ、東大に合格しました」と言うだけで、「お前が今不利な環境にいるのは、単にお前の努力不足だ」という近年はやりの自己責任論を下支えする根拠にされかねない。その人の出身高校が実は進学校だったり、その人が一時期勉強していなかっただけで高いIQや豊富な読書経験を持っていたりという事実はほとんどフォーカスされないのが実態である。

私たちが「頑張ったら、東大に入れました」と言うだけで、頑張る意欲や頑張れる可能性を「奪われてきた」人たちの口を無理やり塞ぐことになる。

なんて恐ろしいことだろう。

だが、それでも私は東大を選んだ。
どうあがいても、その看板と付き合っていくことからは逃れられないのだ。


話がずいぶん長引いてしまった。
最後に、私にとっての「自信」との付き合い方を述べておく。


今までの議論に従えば、私にはもうしっかり自信が備わっているはずだ。
東大を受験しようと目論むくらいなのである。
だから、自信の根拠なんてどうでもいい。大事なのは、使い方だ。

自信の使い方。
私は、それを「社会を変えられると信じる」ことに使えたらと思っている。

自分の可能性を信じることって、結構難しい。
私だって、ぐだぐだと「どうしよう、失敗しそうだしやめようかな…」と考えたりしてしまう。
そういう時に、「私は東大に入れるって自分を信じられたはずじゃないか。その自信があるのだったら、次のチャレンジを成功させる可能性だって信じられる。最終的には、たった1ミリでも社会を変えられるんじゃないか。」という思考法を取れたら。それは、なんだかとても格好いいような気がしている。

ガチャの結果の子どもへの影響を減らすこと。変えられないガチャの結果であっても、子どもが学力に限らず、自分の可能性を信じられる社会を創ること。

もしかしたら、そんなことも不可能ではないのかもしれないですよ。



終わりに。
延々と述べてきて、結局私の決意表明のようなものになってしまった。
また、文脈によって少しずつ意味のぶれる「東大生」という主語を終始使ってきたが、それが大きすぎたのではないかという心配もある。
そもそも、「東大=日本で一番入るのが難しい大学」ということを前提に話してきたことそれ自体にも異論があることとは思う。
どうかお許し願いたい。

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