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帰り道が消えた。

私たちはもう、以前の私たちを忘れてしまった。そんなことってあるだろうか。


新型コロナウイルス感染流行が止まらなくなった今年の春以降、いわゆる「オンライン〇〇」というやつが巷で盛んに行われはじめ、コミュニティのあり方も大きく変わった。

ぶっちゃけ、やり方さえ工夫すれば大体のことはオンラインで解決するのだ。勉強も、労働も、娯楽も、交流も、ありとあらゆる日常生活も。私は大学生として、授業もバイトも新歓も友達作りも全てオンラインで行うというミッションコンプリート的なのを達成した自負がある。

今までは何も考えていなかったけれど、もう面倒くさくて学校や会社に行きたくなくなった人は多いのではないだろうか。

しかしオンラインの数ヶ月を過ごしてみて、私を含め、オンライン〇〇なるものに疲れや飽きや嫌悪まで感じている人は多い。それは何故なのだろうか。

おそらく、オンライン化で失われたものがどこかに存在しているのだ。

回りくどくなったが、私がこんなことを言いはじめたのは、その失われしものとは”帰り道”ではないかとふと思ったからである。


帰り道。

それは、幾ばくかの寂寥感とほどよい達成感に満たされた、体験であり、空間である。

一人で帰るときには、あなたは疲れでぼーっとした頭をゆっくりと巡らせ、一日の出来事を思い返しているかもしれない。私の場合、そのときに思い浮かぶのは関わった人たちが見せた様々な表情と、それに対しての私の感情である。電車の窓から見える鮮烈な夕焼けに、思わず目を奪われることもあるだろう。

誰かと帰るときには、あなたはその日の出来事についてなんのオチもない感想を述べたり、「そういえばさ」と前置きして全くそういえばではない話題を振られたりするかもしれない。暇を持て余したJKたちが学校帰りに突如としてタピオカ屋へ向かうのは、皆さんご存知のとおりだ。家には帰りたいけれど、まだこの空気感が名残惜しい。その一瞬を、シャボン玉の中に封じ込めたらどんなに美しいだろう、と思う。

行きは「目的地に到着する」「時間に遅れない」「頭の中で事前にシュミレーション」といった、複数のタスクが要求される一方で、帰りはただ「家に帰る」ことを基本とすればいいのである。

(家に帰ったらご飯作らなきゃ、子供を迎えに行かなきゃ、という様々な目的がおありの方もいらっしゃるとは思うが、それは帰り道ではなく、”修羅の道”とでも呼んでおこう。そういう場合はかつての気楽な子供時代のことでも思い返して頂きたい。帰り道なんて死んだように寝てるし友達なんて一人もいねえ、という方は、ちょっと環境か自分の性格がやばいのかもしれない、と考え直すことを18歳はおすすめする。)

要するに、私の感じる名残惜しさの対象は、その帰り道の「無目的さ」に対してのようなのだ。しかし、帰り道そのものの存在意義はないに等しい。例えば、学校で勉強するということを達成するためには、「学校に行く」ことは必要だけれども「学校から帰る」ことは必ずしも必要ではない。「学校から帰る」ことは「学校で勉強する」ことの十分条件ではあるが必要条件ではないのである。

今、コロナ禍で流行っている言葉を使えば、帰り道なんて所詮は「不要不急」なのだ。仕事が終わったら、パタンとPCを閉じるだけでいい。そして次の瞬間には、もう別のことに気をとられている。見かけていたかもしれない美しい夕焼けも、あり得たかもしれない生産性0の会話も、他のタスクにとってかわられる。

そんな風にここのところ毎日「すべきこと」ばかり考えていたせいで、「しなくても全くかまわないがちょっとドキドキしたりワクワクしたり目に飛び込んできた何かが心にぶっ刺さってくること」が少しずつ消え、私の世界が息苦しくなっていたみたいだ。このままでは、障害物競走のように一つずつこなしているうちに、気がつけば私は死の床についているだろう。


最近、私はようやく「帰る」ことができた。知り合ったばかりの友人たちと、星の数を数えた。それはそれは、美しかった。

これからは、少しずつかつての日常に戻れるのかもしれない。しかし、私たちが何らかの「喪失」の経験を共有している限り、それはこれまでの日常とは別の顔をしているだろう。

逆にもっとオンライン化が進んで、「移動時間なんてない方がいい」のだから、帰り道が消えていくこともあるかもしれない。私は変化を否定するつもりはない。少し寂しさを感じるだけだ。

それに、例え私たちが目もくれなくなっても、夕焼けは空を真っ赤に染めるし、星は慎ましく夜空で光るし、道端の花は健気に咲くだろう。

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