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自分のために書く。

(2753字)

去年の夏、就活もせず路頭に迷っているところで何かはきだめのようなところはないかと思ってnoteを見つけ、はきだめのように使いつづけてなんだかんだ1年以上経った。


別に続けようと思って続けてたわけじゃなくて、本当に書きたいものがあるときにしか書いてないし(去年は卒論から逃げるように書いていた)、何も書くことがなかったらもうこれ以降更新しなくてもいいや、とも思っている。


そんな底辺モチベーションで(しかも書いてもなんの金銭的な報酬も発生しない)なぜここまで続いているのかというと、まあただ単にモチベーションが低いゆえに書くことへのハードルが低いというのもあるし、金銭が発生しないゆえにクオリティを上げる必要もないから楽、っていうのがあるんだけど、


1つ、大事なこととして、

「伝えたいものがある、伝えたい人がいる」

というのがあると感じる。


綺麗事じゃなくて、いや、これは割と本質をついていると思う。ほんとに。


このSNS爆発時代、みんながみんな自分を発信している。それは少なからず自分を、または自分にまつわる何かを知ってほしいという欲望が底に渦巻いているからだろう。

noteにも、日記代わりに書く人もいれば仕事に関わる情報発信の場として使う人もいるし、まあ中には情報商材を売る目的で書いてる人もいるけど、その人たちは「金」をモチベーションとしてるからここでは省かせていただきますが、


少なくとも伝えたい人・伝えたいことの2点があることが「書きたい」という欲求を生み出すには必要だと考えている。


逆に言えばその2点さえあれば「書きたい」を生むには十分である。


1. 「伝えたい人」を見つける。

これは簡単である。
自分のリアルな知り合いでもいいし、フォロワーさんでもいいし、もしかしたら自分の好きな芸能人が偶然見つけてこれを読むかも、と具体的に妄想する。

できればその人の心が動くところまで妄想する。

「あ〜、この人ってこういうこと考えてたんだ〜」って思ってくれるところまで妄想する。

もし書きあがった時点で誰にも読んでもらえてなくても、一度ネットに上がった記事というのは削除しない限りネットを使える誰もからのアクセスが可能なので、読んでもらうよりむしろ読んでほしくない人から隠すほうが難しいかもしれない。

まあnoteに書いてる時点で、ハッシュタグを1個でも付ければビューワーが0というのはなかなか無いかもしれないけど。

noteのいいところは、twitterとかinstagramほど手軽ではないから、手軽なもので伝えられる表面的な自分をもっと深く発信できるという面と、

独立したブログとはまた違って、他の人の記事にすぐ飛べたり、逆にユーザーから簡単にアクセスしてもらえるという点である。

同じ考え方や趣向を持つ人も見つけやすいから、その分共感や理解をし合えるというのもある。
これをリアルでやることはあまり簡単なことではない。

リアルでやろうとすると、まず出会った1人1人に自分はこういうふうに考えていますというのを表明して、それからそれに共感してくれる人を探し出すのである。

大変だなあ。

まず、こういうふうに考えています、というのを表明するまでのプロセス、コンテクストが必要になる。


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初めまして。こんにちは。実は今「すべての衣類は洗濯物である」(過去記事参照)という結論に至ったんですけど、あなたはどう思いますか?


はい?

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である。

ここで「え〜!実は私もそう思ってたんですよ!」「本当ですか!奇遇ですね!」とはならない。と私は思う。


まあそれは置いといて、誰に読んでもらいたいか、というのは重要である。誰でもいいからビューワー増やしてついでにフォロワー増やそう、という考えでは、いくら多くの人に読んでもらっても後から虚しくなってくる。大切なのは数字ではないのだよ。


2. 「伝えたいこと」を見つける。

2、3行にまとめるつもりがいつもグダグダになるんだけど、言いたいことは「伝えたい人」「伝えたいこと」の2つだけである。


「伝えたいこと」を見つけるのはもっと簡単である。

なぜなら自分の中にあるから。

ただこれを見つけるのが難しいことがある。見つけるというより、引っ張り出すのが難しい。


理由の1つはあまりにも自己犠牲的になっているからだ。

記事を書く以上、誰かのために書かなきゃいけない、自分の専門分野を生かして何か役に立つようなことを書けないかな、などと考えているからである。


そんな意識はいらない。というか書いてれば無意識的に自分の専門分野(というか嗜好)の方面に向かっていくから考える必要はない。


お風呂に入った時になんとなく考えていることでも書いていればそこから自分の伝えたいことが言葉になっていったりする。


なんてことはない。

「リンゴが落ちた」が論文になって世紀の大発見になるような世界なのである。知らんけど。

所詮そんなものである。


窓の外を見てたら、紅葉した葉っぱが散って、さみしい、と感じたら、


枯れ葉が散って、さみしいと思った。

と書いて、なんでさみしいと思ったんだろう、と考えればいいのである。

そこから自分の過去、人間の本質、世界のはじまりにまで進んでいくかもしれない。

その、さみしい、は嘘ではいけない。何か書こうと思って、あ、私今さみしいと思ったんじゃないかな、と思って書き始めたら大体薄っぺらくなる。

それは「伝えたいことがある→伝えたいから書く」のプロセスを無視して「何か書こうと思っている→書く内容を見つける」と「伝える」じゃなくて「書く」が目的になっているからである。

例えば小説家とかブロガーとかそれを生業としてる人にとってはそういう順番になってしまうかもしれないけど、金銭とか対価が発生しない場合、この文章は自分のために書くものである。

なぜ時間と労力をかけて記事を書くかというと、それが自分にとって嬉しいことであるからである。

「伝えたいことを伝えたい人に伝えられる」というのは、とても幸せなことである。この記事が、読んでもらうべき人に読んでもらえるのだろうな、そしていろんなことを考えてもらえるんだろうな、と妄想するだけで嬉しくなる。


恋人に1日の出来事を話すように、旧友と語り合うように記事を書くだけである。
そういう時に出てくる言葉が自分の伝えたい言葉で、それを伝えることが自己表現欲求を満たすと同時に、誰かの役に立つこともあるはずである。

それだけである。



最後に、書きたい、と書ける、とはまた違って、書きたいを書けるにするのに必要なのは「時間的余裕」に尽きる。


だから、まあ、最終的に、noteを続けるのに必要なのは

・伝えたい人
・伝えたいこと
・考える時間、書くための時間

である。

再び逆に言えば、それだけである。

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