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自分の存在価値とは

宮崎駿さんがNHKの「プロフェッショナル」で映画監督をしている理由を問われ、こう答えていた。

「そりゃあ、それが自分の存在価値だからだよ。だって君(住吉美紀アナ)、アナウンサーをしているのだって同じ理由だろう?」

なんだか当然のようで意外というか、仕事をしている時に自分の存在意義を果たしている意識は俺は無かったから、ハッとした。

俺の存在価値ってなんだろう。
仕事面においては間違いなく、上司や取引先といった他人に判断されるもの。
でもそれはあくまで一面でしかないはず。

やっぱ人間として本質的には、自分でしか自分の価値は測れないんじゃなかろうか。

俺は普段嫌ではない仕事をしてアニメの世界に浸り、帰宅したらゲームや映画やらの世界に浸り、まるで現実社会に生きている感覚が無い。
数ヶ月前まで日経新聞を購読していたけど、あれがほぼ唯一の現実社会とのパイプだった。それも料金の高さがネックで解約してしまった。

今の生活でそれなりに満足しているし、それなりに幸せなつもりだ。でも俺の幸せって、虚構で満たされているんじゃないかとふと思う。

さりとて逆に現実とはなんだ?とか問われるとそれはもう哲学だから、迷宮に入っていく議論は避けたいけれど、今の自分の幸せってホンモノなのかな?と思うこの感覚こそホンモノで(我思う故に我あり、だ)。

結婚出来なさそうやらなんやら知人に言われるのが、そういった自分の現状を物語ってる気がするんだな。

ユングだか誰だったか、20代は愛のことばかり考える世代だと著名な心理学者が断定していて、結婚「出来なさそう」って言い方にはそのバイアスがかかっている気がするけど、実際結婚するかしないかはさておきcan’tなのなら問題である。

まぁ他人の人生に深入りしたいと思うタイプじゃないし、生涯独り身でもそれなりに充実出来ちゃう自分がなんとなくイメージできるわけだ。
クリスマスは彼女と過ごすなんてマウントを友達に取られても、そうか俺は観劇してくるよって思うだけ。
彼女と過ごすのが彼にとっての幸せなら、1人観劇や映画鑑賞に勤しむのが俺の幸せ。
それ以上でも以下でもない。

ただ1番問題なのは、欲が大分薄れてしまったなと感じることだ。
今の仕事での自分の成長は年単位で考えているから、明日明後日に急成長できるなんぞ思っちゃいない。
じゃあプライベートはどう過ごしてるかって、クリエイティブな欲がまぁかなり薄まってしまった。
学生時代に脚本書いたり映画撮ったりしてたのもそれこそ「自分の存在価値を証明するため」だった気がするけれど、今はそんなものに気持ちは揺さぶられない。

じゃあ何のために作るのか。何のために撮るのか。

仕事にも通じることだけど、「自分の作品で誰かに影響を与えたい」なんぞただのエゴでしかない。
誰の為でもなく、作品のために作品を作りたい。
それってやっぱ、「世界作り」なんだろうなぁ。
現実社会がカルピスの原液なら、それをどう薄めてアレンジするか。
アイスにするのか、ゼリーにするのか、何か料理の隠し味にするのか.....。
現実社会を生きて、映画に入って、現実に戻った時に、「あぁ人生(あるいは社会)にはこんな側面もあったのか」って気付かせてくれる作品こそきっと名画で。
要はベーシックに水で薄めただけのカルピスに飽きた人をどう魅了するかが映画の本分な気がする。

まぁ人によって「ベーシックなカルピス」も異なるだろうし(3倍希釈だったり5倍希釈だったり)、どんなアレンジに喜ぶかも好き好きな訳やけど。

そう考えていくと、やっぱ自分こそ人生に前向きでありたいし、社会と正面から向き合っていたいと思う。
でも稼業的にどうしても虚構に浸かる時間が長くなっちゃうから、その辺ジレンマやなぁ。

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