恋は物理じゃない Love is not a physics




 今日あの子を電車で視かけた。

 彼女は美しくて、頭がぼんやりしてしまう。

 水を張ったような透明な肌に、綺麗な鋭い眼。

 少し反抗的な、折った脚。まっすぐな髪。ピンバッジのついたバッグ。僕とは違う。

 どこで降りるんだろう。

 パワフルでイノセントな君。




 僕は規則的な生活が好きだ。

 朝5時に起きて青い光の中で、一杯の水を飲む。そうして、コーヒー豆を正確に20粒ミルで挽いて淹れて飲む。オートミールも20gに200mlのミルクを入れて食べる。

 5ページ小説を読んでからテキストを開き、1時間勉強をし、シャワーを浴びる。

 ここで正確にバスに乗る30分前の時間になるから、髪の毛を乾かして、夜整えたバッグにタブレットと本を入れてソファーで眼を瞑ってから登校する。

 でも、規則や法則で測れないこともある。

 あの子の心の位置の変化、向きと大きさをΔxとvで表現できたらいいのに。

 この恋はあまりにも先が視えない。







 今日あの子を電車で視かけた。

 背の大きさと見あわない分厚い英語の赤い本を、ドア元に立ちながら眉根を寄せて読んでいる。

 あのバッグ、すごく重そうなのに軽々持っている。きっと、自分に興味のあるものの質量は感じられない様な、特殊な感覚の持ち主なのかもしれない。


 それにしても、きっと物理の本だ。だって、アイザック ニュートンって書いてある。
 物理かあ。

 文系の私には、全く解らない科目だった。数学はいつも0点で、赤点の捕習もなんの罪悪感も持たずに受けてた。
 だって、興味ないんだもん。

 でも、彼が好きなら、物理には興味あるかも。


 彼は私の2つ前の駅で颯爽と降りていく。席が空いていても、絶対に座らないし、吊り革にも手を触れない。潔癖そう。

 1度だけこちらを視ていた時がある。

 透き通る焦茶の眼は、どことなくリベラルで、世界1賢そうで、透徹していて、綺麗すぎて死ぬかと思った。

 その時確信した。このひとは、きっと、どこかで私に似ている人。

 いつかは、お話しできるかも知れない。


 だからその、長い、長い期間を待っているところ。彼のことは知らない。

 短い清潔な髪、潔癖なほっそりとした手、アイザック ニュートン。

 同じ本は読めないけれど、物理の本を購ってみた。

 私はサルトルの嘔吐がすき。ところで、吐き気という原題なのに、なぜ嘔吐なんだろう?

 英語で嘔吐を聴く。好きなところだけ頭に入ってくる。
 そんな感覚的な私は、きっとアイザック ニュートンを読めない。





 朝、吐き気がした。神経の緊張のせいだ。実際、少し吐いてしまった。僕は過敏なところがある。
 母が心配してくれたけれど、いつも通り勉強をした。

 時々、もうすぐ夏休みなのに、なんでこんなに勉強しているんだろうと思う時もある。

 勉強していないと不安なのかな。

 彼女に会って、すごく楽しいことをしたいな。ラテを淹れてあげたい。そして何か、ブラウニーでもつくってあげるんだ。クリームをつけて、チェリーを載せたら可愛いかも知れない。

 こう考えるだけでリラックスできる。そして、泣きたくなる。

 人生は自分で超えていかなくちゃいけないから、辛い時でも独りで頑張らなきゃ。だからきっと、吐き気がするんだ。

 幼い時、深い淵に落ちる様な怖い夢をみても、両親とそれを分けあうことなんてできなかった。

 逆に母の頭が割れそうなほど泣いていても、代わってあげられない。

 僕達の人生は僕達のものだ。

 でも、彼女の支えになれたらな。

 でもきっと彼女は、ツァラストゥラの前で落ちたあの男の様にではなく、軽々と渡っていくんだ。危険なロープでもね。

 僕はきっとハラハラして、下でクロスを持って待ってる。

 でも彼女はガムを噛んだり、本を読みながら、楽しそうに渡って行っちゃう。虹と一緒に。

 変な話だけど、彼女の前で、雨とかが降らなそう。

 だから僕は、こんな時でも笑っちゃうんだ。






 ドトールの中にいる時、雨が降って来た。不思議なんだけれど、私が外を歩く時はいつも雨が止んでいる。
 そういう時は、宇宙の根源に愛されている気がする。きっとみんな、愛されているけどね。

 物理のテキストの最初の5問は、全て不正解だった。

 きっと彼なら、すぐに解けるんだろうな。

 シモーヌ ド ボーヴォワールを読む。きっとこれからはサルトルより再読されるだろうし、全集も出るだろう。

 ファレル ウィリアムスも聴く。僕のHappyは高すぎて、彼らには届かない。
 宇宙は神だから、きっとファレルは愛なんだ。






 あーあ、雨続き。

 学校の帰りに、濡れて歩いた。

 でも、気分はいい。

 幼い頃に台風の中に行きたかったみたいな。

 僕はくるりと一周身体を回してみた。

 楽しいな。

 今日はスタバに行こう。

 新作のフラペチーノを食べて勉強しよう。

 そして、近所のインターナショナルなスーパーマーケットで、オートミールを買うんだ。

 スタバに入ると、彼女がいた。

 何で?

 僕は固まる。

 ドキドキして、手が緊張して震える。

 僕はどこの席に行こうか迷った。

 その時、彼女は当然の様に顔を上げて、一瞬驚いた後、にっこり笑った。

 にこにこずーっと僕をみて笑顔だった。

 僕は手を挙げてみた。

 彼女は立ち上がって、「こっち!」
と言った。

 僕も笑って、彼女に近づいた。






 なんてことだろう!!!

 病院の帰りに、いつものスタバに行ったら、彼が入ってきた。

 私はドキドキして、一瞬顔を下げた。

 今しかない!!!

 顔を上げると、彼が私を見ていた。


 私はずーーっと、にっこにこした。届く様に。

 彼も笑った。

 私は立ち上がって、言った。「こっち!」

 彼は笑って、近づいた。





「髪濡れてるよ」

 私は言った。

「ああ。雨に降られたんだ」

「降ってたの?」

「うん。今降ってるよ」

 彼は言った。

「僕、フラペチーノを買ってくるよ」

「うん。待ってる」

 私は言い、フラペチーノをひとくちのんだ。

 彼は帰ってきて、綺麗な色のフラペチーノをテーブルに置いて、薄いブルーのタオルで、自分の顔と髪をふいた。

「ふう。君に会えると思わなかった」

「電車でよく会うよね」

「うん」彼は言った。「ずっと気になってたんだ。サルトルの嘔吐を読んでたよね」

「君はアイザック ニュートンを読んでたよね!」
 私が言うと、彼は破顔した。

「あはは。よく知ってるね!」

「私、物理がわからないから、教えて欲しい!」私は言った。

「もちろん!」彼は言った。「僕でよければ」

「ずっと仲良くなりたかったんだ」彼は言って、なぜか一粒、涙を流した。





 それからは、互いの家を行き来して、物理の勉強をしたり、お話をしたり、彼がお菓子をつくってくれる。
 ブラウニーとか。
 ハーシーズとか、コーヒーとかが入っていて、凄く美味。
 アディクティヴな味。

 彼はブルーのソーダとか、それにアイスを乗せてチェリーを乗せたものとかを、すごくよくつくってくれる。

 この間はやっと、私の髪に触った。

 もー。

 野生動物みたい。ピュアすぎる。

 陽射しの下で、綺麗、って言って、感動していた。

「綺麗なのはあなたの眼だよ」って言ったら、びっくりしていた。
 だって陽に透けて、茶色で綺麗だったんだもん。

 それで、キスしそうになったけれど、しなかった。



 天井までいっぱい本が並んだ、巨大で洗練された書店に一緒に行った。フロアに人々が坐って本を読んでて、図書館みたいになってる。店員さんはいないから本当に自由な雰囲気。淡いグリーンとグラデーションになったホワイトのお花をブーケにし、繊細なレースで顔を隠し、床まで裾が垂れている美しいブライドが載った雑誌を、彼はじっと視ていた。

 時々思考回路がわからないんだよなあ。

 私はファレルが載った雑誌を、凄く集中して読んで、やっぱりファレルは宇宙だな。と思ったり、ミッケと言う、小さなトーイをいっぱいぎゅっと絶妙で精緻な位置で配置したフォト絵本を読んで、これ購おう、と思ってセルフレジに行ったりした。

 彼はいっぱい本を買い込んでいた。
 ボーヴォワール全集が出る、という斬新なデザインのポスターが貼られていた。

 外へ出たら、虹が出ていた。

 凄く巨きくて、ぼーっとした。


「ねえ、君と出かけるようになってから、僕、雨に降られたことないよ」
 彼は言った。

「私達が仲が良いからだよ、きっと」私は言って、手を繋いだ。彼はにっこりした。「ねー、いつになったらキスするの?」

「今だね」言って、彼は手に本を持ったまま、私にキスした。

「えー」私は言って、きっと顔が真っ赤になっている。「もう一回」

 彼は自信満々で、今度は地面に本を落として、私にキスをした。
 私達は抱き合って、もう時間なんか無くて、虹しかいなくて、空も青くて、何処までも行けそうだった。

 何処にでも行こう。海外だって、宇宙だって、火星も水星も、外宇宙だって、銀河でコーヒーをのんだり、楽しい事をいっぱいしよう。あなたとだったら、何でもできるよ。

 そうやって、キスが終わって、ぼうっとして、君はまた手を繋いだ。

 そして家に帰って、星の形のクッキーを、君はティーに添えてくれるんだ。

 まるで海から浜辺の砂の上に打ち上げられた夕陽を、そっと手渡すみたいに。





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