『行人』夏目漱石

妻お直と弟二郎の仲を疑う一郎は妻を試すために二郎にお直と二人で一つ所へ行って一つ宿に泊ってくれと頼む…….知性の孤独地獄に生き人を信じえぬ一郎は,やがて「死ぬか,気が違うか,それでなければ宗教に入るか」と言い出すのである.だが,宗教に入れぬことは当の一郎が誰よりもよく知っていた.  

ヒロイン・直の謎めいて妖艶な魅力にぞっこんやられてしまう逸品。

妻・直の自分への想いを疑う一郎は、弟の二郎に、“貞操を試すため”、直と二人で旅行してくれと頼む。

夫の策略によって和歌山へ二人きりで出掛けた直と二郎は、悪天候によって宿の同室で一夜を明かすことになる。

停電した暗い部屋の中で「いるんですか」と訊ねる二郎に、「いるわ。嘘だと思うなら此処へ来て手で障ってご覧なさい」と挑発する直。

さらに直は、二郎の隣で、宿の浴衣に着替える為に帯を解く。暗闇の中で服を脱ぐ衣擦れの音を聞くという場面、あまりに艶めかしい。横溢するエロス。

一郎が直の貞操を疑念視するのも、分かる気がする。嫉妬と猜疑心に取り憑かれて妻を試そうとする一郎の卑劣さとは対象的に、直は悠然と夫の仕掛けた罠を乗り越える。

前作『彼岸過迄』の後半で三角関係における嫉妬という感情を“発見”したその発展型として、『行人』は冒頭からメインテーマにそれを据えている。

夫婦という社会制度への違和や不信は、『それから』でもすでにあるけれど、『それから』や『門』では、制度としての夫婦関係に“自然な感情”としての恋愛関係を対置し、後者によって前者を乗り越えようとするのに対し、『行人』では、後者(自然な恋愛関係)が損なわれてしまっているため、前者(制度としての夫婦関係)の抑圧から逃れる理路を見喪った男の悲劇が展開する。

この、抑圧に苦しむ男の悲劇が、物語前半と後半で大きく位相を異にするところ、『彼岸過迄』同様に、物語としての一貫性や整合性を欠くという批判は、ある程度当たっている。

しかし『彼岸過迄』のようなあからさまな破綻を感じさせないのは、『行人』後半に展開する一郎の悲劇的な破滅が、圧倒的に深められているからだろう。
一郎の悲劇の前では、辻褄の合わないことなど、些細な瑕疵として吹き飛ぶ。

前半の直の艶めかしさと、それとは対象的な、後半の一郎の悲劇的末路。この対比が何と言っても『行人』の魅力だ。

漱石の後期三部作は、“近代知識人の孤独と苦悩”が描かれていると言われるけれど、最終章「塵労」における一郎の姿は、まさにそれ。

キリスト教が倫理的な基盤としてある西洋と違って、倫理を支える宗教がないままに近代化してしまった日本において、倫理的な問題に直面した時、何も頼るものがないという悲劇を、漱石は描いている。

拠って立つものなき日本近代の脆弱性を、登場人物の破滅によって抉った筆の冴え。『猫』における諧謔的な近代批判からスタートして、『行人』の深みへと深化した漱石は、いよいよ次作『こころ』で大きなピークを迎えることとなる。

ところで、“行人”とは、旅人の謂だそうだ。

素直に読めば、最終章「塵労」で旅をする兄・一郎のことを指しているんだろうと思う。物語のラストで語られるこの一郎の旅の壮絶さは強い印象を残す。

だけれども、『行人』はこのタイトルで書き始められながら、当初は最終章「塵労」は漱石の構想になかったようで、となると、書き始める時、「行人」とは誰を指すものだったのだろう?という疑問が浮かぶ。

岩波文庫の三好行雄の解説に依れば、胃潰瘍の悪化により第三章「帰ってから」で一旦連載は中断されるのだけれど、その時点では

小説の完結にはあと若干の補筆で充分であると漱石は考えていた

らしい。しかし、病魔から恢復した漱石は、治療中に構想を改めて、最終章「塵労」を書き始める。若干の補筆どころではない。

あまりに、この「塵労」が圧倒的なので、タイトルも「塵労」で旅をする一郎を指すのだろうと納得してしまうのだけれど、書き始め当初に「塵労」は構想になかったのなら、当初の構想において“行人”とは、誰を指していたのだろうか。

中断以前に書かれた部分で描かれる「旅」は、二郎と母、兄、直が大阪に出てくる旅と、そこから直と二郎の二人だけでさらに和歌山へ旅するところ、その二つなんだけれど、直と二郎の旅が一つのクライマックスであることを考えれば、“行人”(旅人)とは、直または二郎(またはその二人)を指す可能性もあるんじゃないだろうか?

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