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【鉄面皮日記】23/05/24. Rat Race "スキーレンタル"

利き手を変え、こうやって荷を運べば筋肉のバランスが取れるんじゃないのか、
敢えて使い勝手の悪い方の手をこうしてこう、そうすると持ち難いのだけど何か新鮮な気持ち、されども忙しくなってくるといつものやり易い利き手での持ち方に戻っている。
どうもいけない、意識的にならないと楽な方にばかりいってしまう。

午前中は張り切っている、せっかちな性格がそうさせるのかさっさとコトを済ませたい。
どんどん運ばれてくる荷をやたらめったらさばくのだけど、他の人には迷惑だ。
ここでは協調性が求められるのだ。
浮き足だってそれを乱してはならない、どんなに張り切ってみても時給は変わらない。
周囲に迎合するのだ、足並みを揃えろ、
と自身に言い聞かせる。

このループする労働の中、"ネズミの競争"という表題で今までしてきたバイトを書こう。
僕は就職したコトがない、と云えば語弊があるが、ちゃんとした会社に入ったコトがない、長続きした就労先がないという意味で、サラリーマンではない。
30代前に、中古レコード屋をやってそのまま呑み屋さんに移行して13年くらい自営業だった。
数あるバイト遍歴の中、一番高給取りだった仕事について。

"スキーレンタル"

21~3歳頃にやっていたのが、スキー道具を貸し出す冬だけのバイト。
この仕事に斡旋される前に語らなければならないのが、探偵(便利屋)屋さんの仕事。
探偵とか云うととても面白そうな職種であろうが、実際に素行調査などをしたこともない。
確か一回だけ原付バイクに受信機をのせ、どこぞかの家の傍に置いてくるという本当の探偵屋の下請けをやったことはあった。
既にその家に盗聴器は仕掛けられていたのだろう。
だからなぜ本当の探偵屋でないかといえば、ただ単にお金になりそうな仕事を斡旋する便利屋みたいなもんだったからだ。
名目上、素行調査会社だのとうたってはいたが、ほとんどその類の仕事は、他所の本物に紹介し仲介料をせしめる。
僕は最初そのニセ探偵の電話番として入った。
とはいえ社員は僕だけ、社長は今でいう半グレ、上野池之端あるマンション(窓からは不忍池が見下ろせる)の一室での電話番。
部屋には大きい水槽、その中にいるデカいピラニアに餌(餌は金魚)、それに電話の受け継ぎと社長の洗濯、それだけが仕事だ。
社長はたまにやって来て、マンション下に不法駐車した彼のクルマを上から見張るが、一度レッカー移動されてしまった時キレられ額縁裏に隠してある日本刀を振り回され、チビりそうになったりもした。
不用意にあったビデオテープを再生してみたら、ヤクザの襲名式(モノホン)が流れてきて、ああ限りなくそっちに近い方なんだなと面食らったりもした。
社長の愛人宅で、しゃぶしゃぶ(肉の方)をご馳走になった時は、家庭的な一面をもっているとも思ったが、やはり強面だ。
危ない仕事もやらされた。もう30年以上も前なので時効だろうが、偽造テレカで公衆電話からダイヤルQ2にかけ、NTTから情報料をせしめるなんてのもあった。池袋サンシャインシティの人気のない公衆電話数10台から、アダルトQ2(これも一派)へかけると「は〜い待ってたわよ〜」とかなんとか云っっちゃって女性が待ち受けにいしていくんだ。

それからいつやらか週の半分、湯島のスナックでボーイをやらされる羽目になった。
しっかりワイシャツ蝶ネクタイで、お客に片膝つき「イラッシャイマセ」である。
当然お客の横にはドレス姿のお姉ちゃん、カラオケのリクエストを受け取り、レーザーディスクをセットするんだ(平成2年はレーザーディスク)
取れる客からは、もちろんフルーツ盛り(1万円)ボトルもバシバシ入れていく。
地下にある小さな店だったがかなり盛況だった。

本題に入るまでの前置きが長くなったが、そういった悪どい仕事の一環のひとつが、スキーレンタルなのだ。
仲介に入っているのが某バイク便、そこが予約を取り、僕ら(友達も引き入れ二人)が道具を準備する。
中野新橋にある倉庫でスキー道具一式(板にストック、ブーツ、ウェア)を客のサイズに合わせ組んで車に載せ、深夜4時新宿センタービル前の夜行バス集合場所まで持っていくというのが大まかな流れだ。
時間的にはたいして掛からないのだがなにしろ深夜仕事、それも予約があれば毎日であり、穴をあけることなどできない。
多い時には100組ほどの道具を貸し出し、回収もしなければならない仕事を、二人で回すという過酷さだ。
センタービルの刺さるようなビル風が忘れられない。
そしてここがこの仕事の性悪さなのだが、だいたいの道具はぶっ壊れ寸前で、ほとんど使い物にならないであろう代物、ウェアだって綻んでるし、自転車操業なので戻ってきたそのままを貸し出したりしてクレームの数は半端ない。
しかし、社長は半グレである。僕らもまだ若いのでわりと怖いもの知らずだったし、後ろ盾を約束され新宿のその筋に直ぐ連絡とれる手筈も整っていたので、学生(ほとんどの客は大学生だった)相手に高圧的に接した。
(その筋を呼ぶと3万円徴収されてしまうので実際には呼びませんでしたが)
出始めの受話器のような携帯電話を持たされポケベルも携帯し、とにかく仕事の穴だけは空けずと、一冬越すこと3年のバイトでした。
給料は歩合制、月の売り上げから30パーセントが僕らの取り分で、多い時には一月60万円くらい貰っていた。
これは20歳そこそこではあり得ない額だし、当然それからも貰ったことはありません。
これが僕のこれまで一番稼いだというバイトです。
3年目の冬には給料は激減し(さすがにバレますがな)自然消滅を余儀なくされ、僕らはこのままあの怖い社長に付いていく事に不安を覚え、別の友達を充てがってトンズラするのであります。
悪銭身につかず、それが教訓です。

深沢七郎さんが、
稼ぐということがひとつの職業になった場合、労働と違う、
水商売して感覚が狂ってしまう、そこが落とし穴だ。
拾ったような銭でメシを喰っても美味くないだろう。
感覚によって味がちがってしまうというのは、おそろしい。
だからオレは、なるべくカタギの舌で味わっていきたい。
と仰っていましたが、簡単に稼いでしまったお金と苦労して稼いだお金とではお金の質が違うというのは、成る程な、と思った。

だからさ、21歳そこらでそんなあぶく銭を得てしまった自分は、もう感覚が狂っているやも知れぬのですが、
人に奢ってもらう酒より、自身で稼いだ少ない額のお金やりくりして呑むお酒の方が、美味しいてことは間違いない、と思っているのです。