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青識亜論へのラブレター


謎の感情

私は久しぶりに青識亜論のnoteを読んだ。未だにnoteを書いているのかと思った。私はよくわからない、noteの内容はよくわからなかったが、嬉しかった。私は青識亜論が好きだったのかもしれない。懐かしさ、私のあの頃がそこにあった。とりあへず青識氏のnote記事のリンクを張ります。


寂しさ

私はインターネットが戦いであってほしい。青識さんなら誰かとレスバをしてほしいのだ。もちろんnoteの読者がコメントをするかもしれないが、引用リツイートやリプのやり取り、あれでしか得られない栄養素があると思っている。青識さんは対話がしたいようですが、今では自分の記事を書くだけの人に思える。青識亜論には敵が必要だ、少なくとも私の好きな青識亜論には敵が無数にいた。敵同士を結び付ける人の好さ、それが青識亜論の魅力だったように思える。

決意表明

私は青識亜論の敵にならなければならない。そして、私以外の誰かも青識亜論の敵となることを望む。私は学も知識もない馬鹿だ。だが、馬鹿からいろんな反応をもらってこその私の好きな青識亜論なのだ。
私は青識亜論の敵になる。稚拙なクソみたいな文章だが、クソリプ喰らってこそ青識亜論だ。

思想なき思想の時代の感想

 議論のテーブルがどうたらこうたら、思想がどうたらこうたら言っているが、青識亜論がまともな議論のテーブルについたことがあっただろうかと思ってしまった。全体的に古き良きリベラルな主張に思った。だからこそ、議論のテーブルがどこかにあってほしいと、私は思ってしまった。
 私は「これからのフェミニズム」の項については、かなり批判的になってしまう。

生物学的本質?

 青識さんは言う、「社会的構築と生物学的本質は、そんなに簡単に分けられるものではない。」と。しかし彼は素朴に生物学的本質とやらを判断、認識している。ドッジボールの例からそのように私は思えた。

小山氏はロジハラ?

 小山氏のような男女平等パンチを与えられ続ければ、フェミニストは対話をしなくなると青識さんは言う。もとから対話とかしてなかっただろ と私は思った。そもそもあんだけ批判されてるのに、自分たちで有効な反論をできないフェミニスト側が悪い。それこそ彼女たちは思想を新しく造り変えなければならない。その過程で、小山氏のような意地悪な人が必要なのだ。彼はフェミニストに(もっと言えばXの住人に)本を真面目に読んだほしいのかもしれない。ごめんなさい、真面目に本を読まずに生きてきて。

男女平等の枷?

 なぜスポーツでは男女を分けてやるのだろうか、ここでは話を単純にするために興行のためのスポーツを考える。興行のためのスポーツであるから、観客の望む試合が行われるはずだ。その仮定のもとでは、男女区別することも、男女区別しないことも正当化される。が、青識さんの記事のドッジボールの例を好ましく思わないことから、いろいろなことが察せられるだろう。少なくとも、男女を区別する、しないことを男女平等にしなければならないという制約が決定しない例にはなりうる。
 生物学的本質のようなことを私たちが語ることは難しい、それぐらいは胸にとどめるべきだ。トランスジェンダーの存在を信仰するものがトランスジェンダーの定義を理解していないように、フェミニストは生物学的女性を定義できていない。もしある規則が、我々の思う男女という概念を区別できるならすばらしい。しかし誰もそのような規則を語らない。それが本質主義者の弱点だ。青識さんよ、男は男に生まれ、女は女に生まれる、我々が素朴に直感し、体感することだ。しかしその直感は我々がしてきた差別の親戚、兄弟のように感じる。青識さんは性差という視点から、男女平等の概念をupdateしたいのかもしれない。いや、それが難しいんだよ。むしろ男女平等の枷は維持して、個別具体的に解決すべきだと思うのです。本能だの本質だのを曖昧なく正しく語ることは難しく、危険を生みかねない代物だ。私たちは平等を捨てることはできない。本能とやらに修正された平等は、平等の持っていた良き性質を捨てることになるのでないか。女性へ歩み寄りたい気持ちもわかる。しかし理性でもって正当化されないものを受け入れることは、女性を祀り上げることと何の違いがあるのか。
 

最後に

だいぶ好き勝手に駄文を垂れた。私は本当に文章の書き方を知らないらしい。深夜のハッピーな気持ちよさにヤラれた。最後に言いたいことがある。私は青識亜論が好きだ。そして、誰かへ、青識亜論を批判しろ。そうすることが彼の励みになるだろう。

#青識亜論 #フェミニズム #フェミニスト

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