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「あれから10年」「これから10年」悲劇に終わりはないのかもしれない。けれど、奇跡はすでにはじまっているのかもしれない。

2021.3.11

あの日から丸10年たった日。
日本中いや世界中の各地で祈りが捧げられた。

岩手県久慈市。三陸海岸沿いの街でも祈りが捧げられた。

あれはいつのことだったろうか?

2015年か、2016年のGWのことだっただろうか。

三陸海岸面する「岩手県久慈市」。
母親の実家がある場所である。

母親の実家は、母方の祖父が大工だったので自分で建てた家らしい。祖父と叔母(母の妹)とその家族(従妹)が暮らしていた。

東北新幹線で八戸までいき、そこから「うみねこレール」と呼ばれているJR八戸線に乗り、およそ2時間、延々と三陸海岸の海を見ながら、久慈に向かった。

「延々と続く、その海は、穏やかで、あの日、街と人を飲み込み、恐怖をもたらしたあの三陸海岸の海なのだろうか」

とすら思ってしまう。

岩手県久慈市という街

その夜、親戚たちと飲みながら話をしていた。いわゆる「ズーズー弁」という東北訛りで、すべての音に濁音がついて、鼻から声が抜けていく。

そんな「ズーズー弁」になつかしさを感じていたときに、突然、ハッとした。

津波の話をしていた。

そうこの街にも津波はきていたのだ。

なんだか、人の家に土足で入り込んでしまったような気分になった。

三陸海岸の街、久慈。
2013年に、NHKの朝連続テレビ小説『あまちゃん』の舞台でもある。

(2020年に公開された『星屑の町』というロケ地でもあるらしい)

そんな「あまちゃん」の地が、津波の被災地だということを分かっていなかったのは、まさに「あまちゃん」だった。

あの日のあの津波によって、宮城県の三陸海岸沿いとともに岩手県の多くの市の名前が全国的に知られることになった。

陸前高田市、大船渡市、釜石市、大槌町、山田町、宮古市


これらの地名は、ニュースで一度は耳にしたことがあるだろう。

ニュースには報道されないが、久慈市にも巨大な津波はやってきていた。

奇跡の一本松などとともに、いくつもの震災伝承施設がある。
その震災伝承施設の1つに、久慈市の石造りのモニュメント「ケルン・鎮魂の鐘と光」がある。

モニュメントは、海抜からの高さが14.5m。
あの日の久慈港での津波の津波の最高到達地点である。

4階建てのビルの屋上と同じくらいの高さであるからその高さには驚くしかない。

震災への想いを積み重ねていく。

津波によって出てきたがれきの上に、市民が石を持ち寄りモニュメントをつくっていった。

モニュメントの穴は、3月11日14時46分(東日本大震災の地震発生時間)の時の太陽の光が差し込む角度である。

この穴によって、三角形のモニュメントの後ろにある「希望の鐘」に光があたるのだという。

その発想にもっと驚く。

「そもそもケルンって、何?」

ケルンは、登山などで、天気が悪く山頂への方向がわからない時などの「道しるべ」として、登山の道に石を積み上げたりするもだという。

登山で遭難しないように、先に登山した先人たちが後から登山をする人が命を落とさないようというメッセージ。

震災によって、生きていく道を迷っている被災者へのメッセージでもあり、明治、昭和と平成と大津波を経験したから、時代を超えて、後世に「希望の光はいつか必ずやってくる」という生きる道を示しているのだと思う。

2+0+2+1+3+1+1= 10 years 10 songs

想いを積み重ねるといえば、2011.3.11にRADWIMPSが、毎年3月11日に震災を想ってつくった曲(ずっとシングル化せずにyoutubeで配信していた)を、10年を機に10曲をアルバムとして、発表した。

アルバムタイトル
『2+0+2+1+3+1+1= 10 years 10 songs』

2011.3.11を分解して、足し算をすると、10になるという単なるなぞなぞ的な言葉あそびではなくて、この日は、単なる点としての1日ではなくて、10年間の様々な想いが「足し算」されて詰まっているのだと表現しているように感じる。

つまり、
震災というのは、大切なものを奪った「引き算」にばかり目がいくが、
震災による想いは、ずっと「足し算」
となり今へ、そして未来へとと受け継がれてきていると言っているように思う。

分断された三陸縦貫鉄道

さて、ケルンとは、「道しるべ」ということだったが、三陸海岸を繋ぐ道とうことで、先ほども登場した鉄道を少しまとめてみることにする。

宮城県の仙台市から青森県八戸市までを三陸海外沿いに走る(走っていた)鉄道の総称を「三陸縦貫鉄道」と呼んだりする。

その始まりは、1896年、「明治三陸津波」の際に、内陸部から救援物資を運ぶことが難しいということで、三陸海岸沿いに輸送路を確保しようという動きからはじまる。

1933年の昭和三陸津波を経ながらも、建設を続け、ようやく全線完成が近づいた1981年に、国鉄が赤字路線の廃止を決める。

廃線が決まった路線を引き継いだのが、岩手県の自治体の第三セクター「三陸鉄道」である。

この沿線自治体らのシンボルとしての存在と、JRの赤字路線という構図は3.11後にさらに浮き彫りになる。

『あまちゃん』の第1話が、鉄道開通のシーンにて、こうはじまる。

「明治以来の悲願でした」

1984年、明治時代の構想から88年もの年月をかかってようやく三陸縦貫鉄道の全線が開通する。(東北新幹線が、1982年に大宮~盛岡間が開通していた頃のことである)

しかし、三陸海岸をつなぐ全線開通は、2011.3.11までのたった27年間で終わってしまう。

2011.3.11以後、なんとしでも復帰させるという「三陸鉄道」と、鉄道としての復旧はきわめて困難なためBRT(つまり、バス)での再建を目指すJRとで対応が大きく分かれた。

JRの路線の中は、
・山田線をなんとか復旧するも、三陸鉄道に譲渡

(これによって、盛岡から宮古を経由して山田町に延びていた「JR山田線」は、山田町を通らなくなる)

・大船渡市の盛駅から石巻市付近のところまでを鉄道として廃線(バス運行路線にする)

ということで、三陸海岸を1本の線路でつないでいた線路は途切れたままとなった(廃線路線にBRT、バスは走っている)。

津波によって、一本の線路が繋がり
津波によって、一本の線路が分断された

現在の気仙沼駅

新たにつながるもの「三陸沿岸道路」

三陸縦貫鉄道と同じく仙台から八戸までの三陸海外沿いを縦貫する高速道路が、震災後に建設を進められてきた。

気仙沼湾横断橋が開通し、仙台から宮古市あたり(田野畑村)まではすでにつながっている。

また、八戸~久慈間も、まもなく開通予定だ。

久慈~田野畑が年内に完成し、仙台から八戸までの三陸海岸を一本で繋ぐ三陸沿岸道路が完成する予定。

津波によって、一本の線路が繋がり
津波によって、一本の線路が分断された

それでも、なお、道路という一本の線で繋ぐのは、
何度も、津波の被害を受けてきた三陸海岸の想いを共にする地域と人が、

今度、また、津波がくるかもしれないが、だからといって、この土地を捨ててしまうのではなく、
「今度こそは、離さずに手を握って繋がっていよう」と思う三陸の人々の心の繋がりの象徴かもしれない。

コロナ禍ですが、落ち着けば、人や物の往来がにぎやかになり、三陸地方の新しい10年がはじまっていくのだと感じる。

「三陸の奇跡」ははじまっているのかもしれない。

「20世紀最大の悲劇の1つ」と言われた1994年のルワンダ虐殺。
その後に「アフリカの奇跡」と呼ばれるほどの経済成長を成し遂げている。

希望は、絶望の反対側にあるのではなく、希望は絶望の横にいる。

いつか歴史を振り返った時にこう思うのかもしれない。

「2021年3月11日。『三陸の奇跡』は、すでにはじまっていた。」










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