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山に入る

 朝早く、車に乗り、西へと向かった。途中、渋滞があったが県西部の山間部に到着したのは10時だった。 
 早朝まで降っていた雨は上がっていたが、山からは靄がたちのぼり紅葉しはじめた山を薄っすらと包み込んでいた。
「晴れているときも素晴らしい景色だけど、こういう雨上がりもいいですね」運転席からボスが言った。街では雨上がりでも靄はかからない。
「私の生まれたところに似ています」 窓からぐるりと囲む山々を見ながら私は言った。秋の雨上がりの、なんということはない風景だ。子どもの頃はよく見ていた景色だ。だが、それが美しい。
 車はくねくねと曲がった細い道を登っていく。ガードレールも側溝のふたもない山道。昔はこういった道をよく走ったものだ。登るほどに山の木々が深くなり、すぐそこにある生まれたての雲のような靄と同じ目線になる。緑の中にところどころ黄や赤に色づく紅葉が美しい。
「きれいだなぁ」ボスが言う。誰に言われたわけでもなく、季節が移れば葉は木を生きながらえさせるためにあるものは黄色にあるものは赤く色を変える。
「誰に見せるわけでもないのに時期が来れば紅葉して、葉が落ちて新芽が芽吹き、山桜はひっそりここで咲き続けるんですよ。千年も前から」
「美しいです。自然のままの山の力強さは」
 カーナビに集落があらわれた。こんなところに、と驚きを隠せない。かつて酪農のために開拓をしたそうだ。しかし、徐々に人は減り朽ちた鳥小屋や納屋がそのままにされていた。ここで人が暮らしていたのか、と思うこととこの人里近くまで獣たちがおりてくるのか、という思い。自然のバランスが悪くなっているのだ。 
 山頂付近まで車で登り、路肩に車を停め山に入る準備を整える。
 ワークマンでそろえた作業服やヤッケを着込み、派手なオレンジ色のベストに軍手をする。必要なものを携行するバックが小さすぎたのが致命的ではある。 
 初めての山にボスと会長と一緒に入る。道ではないやぶやのり面を足跡を探しながら登る。
「伊吹さんいるから今日はゆっくり行きましょう」気を遣われてしまう。山育ちで意外にこういう山道は平気だ。雨上がりで降り積もった落ち葉が滑る。落ち葉の下の黒い土は柔らかく足を支えてくれる。斜面を降りるのにつかんだ立木がぽきりと折れる。朽ちているのだ。立ったまま。立ったまま朽ちた木に苔が生える。苔は芽を伸ばし花なのか空に向かって手を伸ばしているようだ。
「罠をかけるから、できあがったら見てもらうね」そう言って会長は罠が入った袋をもって斜面を降りていく。すいすい降りていく姿は若々しい。
 獣が通りそうな、足をつきそうな場所の土を掘り土を袋に詰める。この土は人の匂いがついているので少し離れた場所に移す。罠をしかけワイヤーを木にくくる。大きさにして30センチ四方。それを自然に見えるように落ち葉や土をかぶせ見えなくする。場所を変え、さらに2つの罠をかけるのを見学。別の山から犬の吠える声がする。車を停めた頃しきりに鳴いていた。声が離れてきこえるので山に放たれたのだろう。吠える声の後ケーンと何か違う声がし、だーんという低い音が響く。銃声だろうか。おそらくそうだろう。私は猟師が狩りする山に入っているのだから。
 3つの罠をかけ、一旦車に戻ることになった。降りてきた斜面を登ろうと振り返ると、ふとどちらが上なのかわからない感覚になった。落ち葉が積もった地面、黒々とした木々の合間から見える曇天。どちらが空なのか地なのか。登り始めて、木々を迂回して自分が遅れて下っていることに気づく。こうして人は道に迷うのだ。
 ハイキングコースまで戻ると根元から倒れたまま朽ち、緑の苔に覆われた大木があった。靄がかかり幻想的な光景だ。陳腐だと思っても「エルフが出てきそう」と口に出てしまった。晴れていれば富士山も見えるそうだ。ハイキングコースの入り口まで降りてくると、大六天が祀られていた。緑色に苔むした台座が古くからこの山で人々が暮らしていたことを思わせた。今は参る人もほとんどいない大六天に手を合わせた。ところどころ木々が倒れている。道だと思い踏み抜いた先に穴があいている。大雨で土が流されえぐれたのだ。木々が倒れ、朽ち・・・この山は老いているのだ。人が住まなくなった山に獣たちが闊歩する。

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