嫌う事の肯定

好きなものの話をしていると楽しい。
当然ですね。

では嫌いなもののを話をするのはどうですか。
きっと嫌いなものの話をするのは不快であるとか、いけない事であるとか、そもそも時間の無駄であると答える人が多いでしょう。

しかし「嫌い」をタブー視する事によって見逃されている価値があるように最近思うのです。
何が好きであるかと同じように何が嫌いであるかも立派なその人の価値観。

「嫌いである事」を肯定する時に1番入りやすい例として食べ物で考えてみてほしい。
トマトが嫌いな人がいたらどう思うか?
「へーそうなんだ」で終わる人が多いのではないでしょうか。
トマト好きな人であれば「えー美味しいのに!」という程度で話が終わるでしょう。
おそらく相手がトマトを嫌いである事で傷つく人はなかなかいないと思われます。

食べ物であればこの程度で特に誰も傷つく事なく話が終わる。
しかしこれが好きなアーティストの話になるとどうでしょうか。
僕は流行りに疎いので流行りのアーティストはあまり知らないですが、例として米津玄師で考えてみますね。

米津玄師が好きな人の前で米津玄師の事を好きじゃないもしくは嫌いだと公言できるかどうか。
おそらく多くの人がそれは言いづらいとか言ってはいけないと思うでしょう。

無論わざわざ嫌いだと言う必要があるわけでもない。
肝心なのは、言う必要があるかないかではなく言えるか言えないか、そして言った場合にどういうことが想定されるかを考える事にあります。

おそらく相手の好きなアーティストを嫌いだと伝えると多くの人が不快に思うでしょう。
どういうわけかトマトが嫌いよりも米津玄師の方が圧倒的に抵抗感が強いのは何故でしょうか。

それはやはり対象が人である事が理由として大きいように思います。
心を持つ人に対しての「嫌い」ともなると、単なる好き嫌いの感想を拡大解釈して人格攻撃と捉えてしまう人がとても多い。
もしもトマトに心があるという価値観があれば、状況は変わっていたと推測できる。
(ごく少数そういう人もいる?笑)

また、米津玄師くらいの知名度と人気になると、「みんな米津玄師好きだよね」という多数派的な意見を当然であると考える人が増えてしまう。

しかしたとえ相手がどれだけ米津玄師が好きであろうと、多くの人が米津玄師が好きであろうと好きじゃない人がいるのも事実です。
「私は好きであるが、あなたは嫌いである」というごく当たり前の課題の分離ができていない人たちの人格の基盤はかなり問題があるように思うのです。

ここでおそらく勘違いする人が出てくると思うので言いたい事が一つあります。
「嫌いである事」自体がその人の「好きである事」を否定するものではないという事です。人が何を好み何を嫌うかを否定する人というのも勿論いるが、そういう人は放っておきましょう笑笑

僕自身はプログレメタルなどのマニアックな音楽が好きなので、そもそも周りに肯定される事など到底期待できない音楽を好んで聴いていました。
もしかすると、マニアックなものが好きな人というのは他の人も好きであるという前提を持つ事が初めから難しい為、周りの評価に捉われずに自由を楽しんでいる傾向が強いのかもしれない。

本当に好きで好きに誇りを持つのであれば、周りが好きであるか嫌いであるかはどうでもいいはず。
そういう自分だけの「好き」を持てる事が最終的に「嫌い」に対しての寛容さを身につける事に繋がる。
逆に言えば他人の「嫌い」に対して傷つく人は自分だけの「好き」を極める事も難しくなる。

「嫌い」の否定は全肯定の要求であり、全肯定する為に短所を感じないようにしたがる事は決してその対象に対して愛や優しさがあるからではないでしょう。
これは短所があっても周りがなんと言おうとも愛せるという主体的な愛情の欠落であり、同時に短所があっても愛されるという自信の欠落であると言えます。
この状態は自分に対しても他人に対しても信じる気持ちが持てない状態になります。

また相手が何を嫌う人間なのかという事を知る事は逆にその人の好きを知る材料にもなり得るし、その人の特性のようなものを知る上では非常に重要です。
案外、人間の特性というのは好きに限らず「嫌い」にも多く現れるように感じています。
もっと素直な「嫌い」の気持ちが肯定されるようになれば良いと思います。

長々と書いてきましたが、この記事は問題点の指摘だけであえて終わりにしたいです。
何故なら自分の好きなものを「嫌い」と言われて傷つく状態というのはそう簡単には変わらないからです。
それを「変えろ」とは言わないし言えない。
きっとそういう人たちは「変えろ」と言われて変われなければ自分を責める、もしくは「変えろ」と言った人間を恨むと思うのです。

ただ事実を認識する、それだけでいいのです。
事実を拒否しないで事実として認識する、これができただけで大きな意味があります。
このスタート地点に立つか立たないかが運命の分かれ道でここに立てさえすれば人間は自然と精神的に自立していくように思います。

自分と相手は違う人間であり、
違った価値観を持つ人間であり、
自分が好きなものを相手が嫌い、
相手が好きなものを自分が嫌う事もある。
その上でお互いを尊重し合う。

これがコミュニケーションであり、
愛であり、自立であり、心の成熟である。


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