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遠回りを何よりも大切にしたい

最近わかってきたことは、遠回りを望んで進んでいこうとする人に惹かれる傾向が自分にあること。
逆に言うと、近道や効率を求めようとする人に対して非常に大きな不安を感じる傾向があることになる。

おかしなことに、自分自身がこの近道や効率をいつのまにか重視するようになっていたように感じる。(なぜこうなったのかは今はわからない)
当然このような状況で自分を好きになることはできない。
一つ思うのは、福祉の業界に身を置く中で「人を救う」「誰かを助ける」ということに焦りを感じていた可能性は高い。
自身の劣等感は近道や効率を重視する起爆剤になっていた可能性はあるし、近道や効率を重視するあまり自身の劣等感を大きくするに至った可能性もある(自分を好きになれないということも影響して)

ただ、ここ数カ月の間に色々あり、様々な悩みを抱えた結果、個人的に自分自身が「福祉」から離れていっている感じはする。
メタバース空間での過ごし方がとても大きく影響している。
メタバース空間では自分の素性を知っている人はほとんどおらず、自分はただのメタバースで遊んでいるプレイヤーである。そして単純に自分の好きな音楽を聴いたり、好きなように過ごしている傾向があり、これがすごく楽しい。
また、Vtuber(ここではV界隈の人すべて含んだ意味とする)の存在も大きい。最初は単純に福祉を広げていける手段として注目をしていたが、どうやら自分が関心を持っていたのはそこではなかったような気がする。

自分が好きなVtuberは、しっかり人であり個人である。想いや夢を持っていたり、自分のやるべきことが見えている人である。そして何よりそれが周囲の人に伝染していく、あるいはそこにシンパシーを感じて人が集まってくる傾向がある。
人気がある、知名度があることとは本質的に違い、ただの虚像と理想の関係性ではなく、自分の本音をぶつけあっていけている関係性に近い。(ぶつけ方はパフォーマー側とファン側では当然違うが…)
歌だったり、絵だったり、コメントだったり、思い出だったり・・・表現方法はさまざまである。

一方で自分が非常に大きな不安を感じるVtuberは、近道や効率を重視し、個性をなくし、有象無象になってしまっている人達である。皮肉にもこちらのほうが知名度が高くなったり、人気があるように見えることもある。
しかし実質「目的」を感じることができなかったり、ものすごく視野が狭くなっていたりなどリスクを伴ってくることが多いと感じる。(手段を重視し目的を軽視する傾向?)
知名度や人気があるにも関わらず、選択肢は狭くなり、特定の、パターンを強要されているようにも感じる。虚像と理想に縛られていることも少なくない。

自分が福祉に貢献できると考えるVtuberは「自分が好きなVtuber」である。
ただ、これはもっと言ってしまうと、Vtuber関係なく、人として好きであると考える。
メタバース空間で過ごしていても、自然とそういった人のもとに足を運んでいる傾向があると最近気が付いた。

福祉に貢献できるVTuberは決して簡単な立場ではない。地道にスキルを磨いていったり、自分と向き合ったり、視聴者、リスナーとなるような人達をイメージしていったり等、とても大変な立場である。だからこそいきなり人気を得たり、知名度を上げていくことはできない。視聴者、リスナーがどういった人であるのか細かくイメージすることができなければ、自分の想いや夢を届けることは当然できない。目の前の小さないこと、目の前の人に対して草の根活動のようなことをしていく必要がある。
これは一般的なVTuberとしては非常に効率が悪い方法かもしれない。遠回りなやり方だと思う。ただ、自分はこの遠回りこそが大切であると考えるため、こういったVTuberをとても大切にしていきたい。当然人としても大切にしていきたい。

福祉の専門家も同じである、自分のことを知り、相手をイメージして、大きな実績をいきなり出そうとしない、地道に信頼関係を構築していき、適宜アセスメントをしていきながらの草の根活動である。
自分がVTuberに興味を持ったのは、こういった共通点を無意識にでも感じていたためと考える。

こういったことばかり考えていると、ソーシャルワークの勉強は当然できない、知識の勉強ができないことは専門家としての自己研鑽に遅れが生じることになる。でもそれで良いと思っている。正直今必要なことはソーシャルワークの勉強ではなく、VTuberやメタバースにおける自分のスタンスに対してしっかりと考察をしていくことである。ソーシャルワークの勉強をした方が福祉に対して効率よくアプローチすることができるかもしれないが、それは自分のやることではない。VTuberやメタバースにおける自分のスタンスに対してしっかりと考察をすることはまさしく遠回りであるが、だからこそ大きな意味があると思っている。

この数カ月間、自分は前に進めていなかった。それだけでなく、多くの人が自分から離れていった。
計画から大きく外れただけでなく、自分が構築してきた構想の8割ほどが壊れていった。残りの2割を活用して再構築していく必要がある。
しかし、まさしくこれこそ「遠回り」であり、自分にとって必要なことであったと思う。自分が意識できないからこそ、環境が無理やり「遠回り」を選択させてくれたと考えることもできる。

今繋がれている人、興味を持っている人、大切にしていかなければいけない人は、自分に「遠回り」を意識させてくれる人である。手放してはいけない人たちである可能性が高い。

逆に、離れていった人達は自分に「近道、効率」を求めてきていた人達と考えることができる。「離れていってくれた」と考えるべきかもしれない。

これから考えなければいけないことは、遠回りに関する計画である。
こんなこと考えたことなかったらこそ、また試行錯誤の連続だと思う。でもすごくワクワクしている部分もある。
遠回りに対して違和感を覚える人たちはこれから先も出てくると思う。
その時はしっかり対話をして、自分の考えを伝えていく努力はするつもり。しかし結果として離れていくのであれば、そこにはこだわらない。
遠回りを認めた人生をこれからは意識する。



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