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「自然に遊び心が発動される場づくり」のマイニング・インタビュー文字起こし Part 1

慶應義塾大学SFC「パターンランゲージ」の授業のために行った、「自然に遊び心が発動される場づくり」についての、原っぱ大学 塚越 暁さんへのマイニング・インタビューの文字起こしです。元となっている映像は、以下で公開しています。

慶応SFC授業「パターンランゲージ」(2021年度春学期)マイニング・インタビュー動画(授業資料 兼 履修選抜課題)

このマイニング・インタビューは、井庭崇(慶應義塾大学総合政策学部教授)と、井庭研究室所属の授業アシスタントの川邊、安藤、岡によって行われました。

文字起こしは、川邊が開発・運営している文字起こしサービス「もじおこしザル」(https://mojiokoshisaru.com)を用いて行い、それを川邊、安藤、岡、井庭で修正しました。

インタビュー音声の文字起こしとして作成していますので、読み物としての読みやすさの修正は行っていませんので、その点はそういう資料だということで、ご理解ください。

映像のどの位置の話かがわかるように、途中、5分ごとにTimestampを入れています。2時間36分のインタビューで、5万4千字あるため、5つの記事に分けて掲載します。

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※Timestamp: 0分00秒

【井庭】ということで、原っぱ大学でやられてるような、自然に遊び心が発動される場づくりで何が大切かということを色々お聞きしていきたいというふうに思います。
さてそれではもうそこからなんですけど、今言ったような、大人も子どもも思いっきり遊ぶような遊び心が自然と発動されるような場づくりって何が大切かって言われたときに、どんなものが思い浮かびますか。

【塚越】それこそ、あるというよりも、ほわっと部分がすごい大事で、関わり方みたいな。どう、あってほしいかって言うと大人も子どもも、役割を下ろしてほしいんですよね。大人は当然だけれども、子どもを守らなきゃとか、子どもを導かなければとか。まあそういうもので気づかないです。僕自身も含めて役割を背負ってしまっている。
で、子どもも集団学校とか保育園と幼稚園の中で、こう振舞うとか、親に対して子どもとしてこうあるべきみたいなのが無意識のうちにどんどんどんどん蓄積されちゃっているものを、なるべくみんな下して、僕はいつも自分自身であってほしいということ言うんですけど、それってなんとなくわかりづらいらしいんですけど、そういう状態にあってほしいな、来てくれたら。
激しく遊ぶっていうことが正解ってことではなくて、当然泥んこになりたくない子もいるし、ただ焚き火を見つめていたいだけみたいなお父さんもいるし。その人がその瞬間やりたいことってバラバラだと思う。原っぱ大学きたから自然の中で思いっきり遊ぶのが正解っていうふうな認識で来られるとまたそれも違うというか。
あくまで場はステージというか箱でしかなくって、そこで何をやるかって言うのは、その人のその瞬間。朝までは泥んこになりたいと思ったけど、来たら泥んこなりたくなくなった。「いいじゃん」みたいな。そういうものが出せる、状態をつくり続けるのが我々スタッフの仕事だと思っていて。
その時に、どうやって関わるのかっていうことで、それが一つは僕はすごく意識してるのは、我々は「ガクチョー」(学長)とかって言っちゃってますけども、先生ではないというか、上下の関係ではない。参加者とスタッフみたいな関係ではなくて、スタッフと参加者も人と人で対等だし、それは相似形で大人と子どもも人と人とで対等だし。そういうことを、あり方としてすごく大事にしている。だから導くとか教えるとかしない、基本的には。「スタッフには素人であれ」みたいなことをすごく言っていて、素人なんです。なので、googleで探すし、よく分からないし、一緒に考えるし。
なんかすごく言語化するっていうこと難しいことで、僕の失敗と言うか、初めて2年目ぐらいに、「これとこれとこれをやったら人が喜ぶ」みたいなのが、なんとなく見えたみたいになっちゃった。「まず焚き火を起こして次に探検に出かけて、最後秘密基地つくったらOK」みたいな。Howの定型パターンみたいな、「これやったらみんなが喜んでくれるからOK」ってなった瞬間に、僕自身の熱量はちょっと下がったの。で、それによってきてくれてる人たちが認識したかどうかわかんないけども、僕の認識としては相対的に質が下がった、全体の熱は下がった、みたいな経験があって。でもそれって、だからなんかすごく舐めてたというか、わかるわけない、その日その日くるメンバー違うし、天気も違うし、起こること違うから、実は解像度が低かっただけで。
ずっと見つめると同じ焚き火やってるように見えても、火の着け方、マッチの使い方、その人の在り方一つで全部違うから、そこを解像度高く見守っていると全部違う。全部違うものに対して、いかに真剣に向き合って、常に自分が知ろうと向き合う。ともすると、「こうやってやればいいんですよ」「こうやって、こうやって、こうやって、こうやってやったら、こうやって焚き火やったら進められるんです」と言っちゃいがちなんですけど。我々の経験値が上がってくから見えてくるんだけど。でも、その時にいかに自分たちがうまくいかないというか、想定外の状況に自分たち自身も置けてるかどうか、ということがなんかすごい大事だなと。
場をホールドしきらない。それによって縦の関係、固定化された関係をつくらない。みたいなことは、すごく大事です。

※Timestamp: 5分11秒

【井庭】すごくわかりますね。
まさに「みつかる+わかる」でやっている、ジェネレーターという考えとか、アマチュアであるとかそういうところがあると思うんです。ここにいる人は知ってるけれども、一般社団法人「みつかる+わかる」で、市川力さんと、原尻さんと、塚越さんと、僕で、そういう活動してるわけですけど。そこでもやっぱり出てくる話ですが、教える導くというよりも自分たちと一緒に探究する、一緒に冒険する、みたいな一緒につくってみないとわかんない、やってないとわかんないねってことになっているわけですね。
その一方で、教育も関わってると、授業ってそうなりがちですよね、定型の今年、去年うまくいったやり方をもう1回やればうまくいくだろうと思うと、なんか自分自身のテンションも下がるし、「その場の空気感も良くないな」みたいになるから、あんまりこう同じようにはしないようにする。でも、まったく毎回ゼロからかって言うと、持ち越すものがあって、何かやっぱり自分の中の経験は積んでるので、単に毎回毎回スクラッチでゼロですってわけでもなかったり、そのあたりが多分あるんだろうな、ってのはありますよね。深い意味でのパターンが。
今の話で、役割を下ろすっていう話で、でもやっぱりこう普段の役割がすごく大きいから、お父さんとかお母さんとしてとか、大人としてとか、子どももちゃんとしなきゃとか、あと、きちんと片付けないといけないとか、これやっちゃいけないよなって、普通のいつもの感覚ってのがあって場に来ると思うんですね。どうやってそういった人たちが役割を下ろせるようになるんですか?やり方というか、何かを通過するとそれがこうなるのか。

【塚越】すごくたぶん、それこそパターンとしてつくっていきたい、これを掘り起こしてマイニングしていきたすごく大きなポイントだなぁと思っていて。そのやり方が人に、スタッフによって結構違うパターンを持ってるかもしれなくて、スタッフに大事にしてほしいとすごく強く言って。
みんな戸惑うのは、「自分自身であってくれ」と、「スタッフ自身も、スタッフという役割をあんまり意識しないで自分自身で場に、友達に接するように臨んでほしい」みたいなこと言って、ますます混乱するんですけども。するんですけども、本当にそのひとりの自分でいてほしいってことではないのかもしれないですけど。その人の得意なパターンで場に向き合ってほしいということかもしれないですけど。
例えば、僕はフロントにたつのが得意というか、対人間で、ぐわっと周りを引っ掻き回すんです。僕自身が「道化」になります。何かというと僕自身が率先して泥んこになる。子どもとの戦いごっこにいきなり巻き込まれて、要は子どもが今「鬼滅の刃」ブームの中にあり、棒を持つわけです。当然、それを振り回す、もちろんシチュエーションによってはそれが「危ないから本当にダメ」って言うシーンもあるんですけども、ある程度の動きだったら別にいいと言うか。僕も痛かったら、怒るけど。
なんていうか、そういう、普段やっぱり日常の公園だったり、生活では「NO」って言われてるところに、舞台に僕も乗っかって僕も棒を持って一緒に戦いごっこをするみたいなふうな、「NO」と普通の大人なら言うシーンにおいて「NO」と言わないで子どもに乗っかるみたいなこととか。
「これやったら恥ずかしいよね」とか、「これやったら痛いよね」とか、「これやったら恥ずかしいよね」っていうところには、あえて僕からまず突っ込んでみて転がってみる、泥まみれになってみるみたいなふうに、自分をドーーンとダメの対極、やっちゃダメなことの対極に転げ落ちて、道化っぽい、ジェネレーターっぽい動きをすることによって、パッと開くみたいな。
そういうときに心を開きやすいのは、割と、あの、普段やんちゃをやっちゃってて、公園とか集団活動で常に「NO」っていうふうに言われ続けてる子が、スイッチが入りやすくて。

【井庭】やっていいんだ!ってなってね。それいいんだ、塚さんはいいんだ、みたいなになりますよね

※Timestamp: 10分0秒

【塚越】でも、場、それが、アーリー・アダプターみたいになって、フラッシュ・モブみたいに全体に行くっていうのはすごくやっていて。
でも、最近思うのが、それは僕のパターンだ、スタッフによってはそのパターンをやることを求められるのが苦痛だったり、それは実は僕のパターンでして。原っぱ大学のパターンではないっていうのは、最近の気づきなんです。

【井庭】まさに、そのフロントで自分が道化になるって言うことが、楽しい・面白いと塚さん自身が思っていて、それは自分らしいわけですね。自分らしく、スタッフもその人らしくあるということで、塚さんはこれがまさに自分らしいからそれでやっている、ということですね。他には何かタイプいるんですか?昔、「水」とか「火」とか、いろいろ…

【塚越】まさしく、スタッフのあり方を「火」と「木」と「水」と「土」とみたいなエレメントに分類してみて、僕のそのパターンは「火」だって話をしたんですよね。もう一個のすごく強いパターン、いくつかあると思うんですけど、一つはやっぱり多いのは「寄り添い型」みたいな感じですね。結局は、結果として、その子がそこで居場所を見つけるというか、やりたいことを見つけてやれればOKっていうなかで言うと、さっきの、僕の前に集まってくる子は基本的にエネルギーが有り余って発動してしょうがないみたいな人。でも一方で、人と距離を置いて徐々に徐々に自分を出していきたい、自分は内に秘めてるけど、それが、勢いがある場に行くとちょっと躊躇しちゃうんだよみたいな。
僕のパターンしか持ってなかった場のときに、そういう子たちって結構置いてけぼりになったんじゃないかなって、今振り返ると。でも、僕らはさっきから言っているように、「自分自身であればいい」っていうふうに思っているから、遊びっていうのはその激しい遊びだけが遊びじゃなくて、心が遊んでることで、今回の「自然に遊び心が発動される」ってパターンの通りで。さっきの質の話ですけども、遊びに正解はないというか。
大人からすると、「せっかく金払ってこんな山奥まで来て1日かけているのに、お前はそこで蟻んこ見てんのか…」とか、「そんなちっちゃな遊びしないでくれ」と、親としては思ってるんですけど。

【井庭】「向こうであんな面白いことやっているんだから、蟻なんか家の近くで見れるじゃん」みたいなのですね。

【塚越】でも、すごい尊いことだと思ってて。その小さな遊びに向き合い続けられるっていう、そこをサポートするのは結構俯瞰した目線を持っているスタッフで。何をやるかって言うと、結構親の意識を逸らすというか親の意識をちょっと、親とうまいこと話しながら、子どもと親をちょっとだけ距離を取って、この子が自由になる余白をつくる、みたいな、なんか武道みたいですよね。
ていうこととか、さっとその子の必要なものを側に置くとか。何て言うかな、その見守るとはまた違うんですよね、でもちょっとしたキッカケ、ヤドカリみたいな感じの自分のやりたいこと出していいのかな、出さなくていいのかなみたいなときに、出せるようにちょっとだけ。動機づけるとも違うんだよな...

【井庭】面白い。激しい遊びだけじゃないんだっていうので心が遊んでればいいってすごくわかって。遊びって言葉もあのプレイって意外に「ゆるみ」と言うか、ハンドルのゆるめ方の「遊び」の部分をつくるみたいな、ゆるんでるって状態じゃないですか。
そういうわー!っとプレイフルにパンと弾けるようなもの以外に、何かこう心がゆるんでいる状態で、蟻見ててぼやーっとしてて、「すごいなぁ」みたいなところがあって、ゆるみをできるように周りを調整してあげると。

【塚越】さっきの、井庭さんの質の話で言うと、ともすると、こういう場って激しく一体感をもって盛り上がってるのが価値を発揮している場、というふうに認識がしがちなんですけど、僕らは違っていて、スタッフと振り返って、「よかったね、あの子にとって」みたいな。まさしく表面的な勢いとか激しさとか熱量とかじゃないんですよね。
そこで居場所をもって、自分らしく過ごしてくれてた。いや、それは本当に蟻んこ見てるだけだったかもしれない。何かずっと木を削っているだけだったかもしれない、焚き火を見つめていたかもしれないけれども。

※Timestamp: 15分4秒

その子、もっと言うと、その大人、そこにいた一人ひとるが自分の好きなこと、興味に応じて動けてたっていうそのうごめき、そのものが良さだな、と。発動し切きれなくって、なんとなくみんなを導き切っちゃったみたいだとすると、「あれ、よかったかな?」みたいな話が残ったりします。

【井庭】うちの娘も、小さい子もあの公園で鬼ごっこみたいに激しく遊んでる時もあるけど、あるときなんか、公園の端っこの木のあたりにいるわけですね。友達となんか、あの、一人とか二人とか三人とかで遊んでて、女の子と男の子両方いて、「何してんの?」って見に行って僕は公園に写真撮りに、子どもが遊んでるところに行ったりして見てると、「これ、おせんべい」と、「おせんべい」とか言って木の皮集めてね、なんとずいぶん静かな遊びだなって思って。せんべいって、そうか...みたいな、でもそれは楽しいんですよね。それは家の中にやっぱり持ってかないから、なんか、木の伐採された後の切り株みたいなとこがあって、奥の穴にみんなで入れてるんですよ。なんか静かな遊びだなぁと思って見てる。
親の気持ちを逸らすとか、親がちょっと離れるように、何かその、話をしたりとかしてちょっとそのスペースをつくってあげるというか、余白をつくってあげたりするんですね。

【塚越】あとは、やっぱり僕らって、その子どもは正味、エネルギー溢れてて発動したくてしょうがないか、ちょっと場所見知りだったり人見知りだったりして、慎重かもしれないけれども、でも自分の中に持ってるか、なんとなくその線上の中のどこかみたいな感じなんですよ。だから、余白をつくって、別に激しい遊びじゃなくてもいいから、「好きなように過ごしていいんだよ」って言うことの信頼関係、それは場所に対して人に対してっていうものが生まれれば、わりと動き出す。
動き出さない人ってあんまり見たことない。動き出さないと、動き出したらさっき言った走り回るじゃないですけども、発動しだすというか、遊び心が。
で、結構やっぱり多いのは、「泥が苦手」とか「虫が苦手」とか言ってビビってる子たちもいるんです。あとは、「大きい声出す人」が苦手。だから僕からはすごく距離を置くんです。
そういうスタッフたちが、別に僕ら自然体験をしてほしいみたいなことは全然ないので、虫が苦手なんだったらブルーシートで覆って、虫のいないとこで遊んでみたりとか、それも発動しだすと、「苦手」って言ってた子が普通に虫触っている。
なんかそこは、その彼らの中にある先入観というか、苦手って思い込みみたいなものをちょっとずらしてあげると、動き出したりするから。あの、エネルギーある子は、ガーっといっぺんに来るし、自身の思いが強くって動けなかったり、一人きりがいいみたいな子には、そこにスタッフがときに距離を保ちながら、ときに近づきながらサポートする、みたいな。サポートするというか一緒に遊ぶことで、何かそのぐらいでエネルギーがパンとわかりやすく出るか、内に秘めてるか、あとは大人数で遊ぶのが好きか、一人で遊ぶのが好きかみたいなので。なんかでやってくとどんどん、大体顔見るとうちのスタッフはわかるので、だんだん転がっていく。
でも、どちらかというと、やっぱり僕らが意識を向けてるのは、大人の側なんですよね。僕ら原っぱ大学って、大人と子どもが遊ぶ場というふうに設計していて。もっと言うと、僕らの場はそのチケットを買っていただいて、週末に来ていただく場なので、日常というよりも日常のなかのスパイスみたいになっているんですけど。大人が遊べるという実感を持って遊ばないと、日常に帰ったときに、結局また子どもを制約しちゃったり、大人自身が苦しかったりするので、その大人がどうやったら遊び心を発動できるかっていうことの意識、意識とか働きかけみたいなのも結構大事にしています。すごく大事にしています。それが価値の根幹だと思っている。

※Timestamp: 20分1秒

【井庭】そこ難しそうですよね、なんか、子どもの方が自然と制約を外してあげれば。大人はあともうちょっと、テコ入れというか何かあるんですか?

【塚越】それはいくつかやり方がある。そのなかでやってるんだろうなぁと思っていて。原っぱ大学、もともとはスポットのイベントで、それをスポットからチケットで何回も関わりを持てるようにしたのは、結構そこの部分の価値をつくるためだったってところが大きくて。

【井庭】なるほど、何回かこうやっていくうちに、変わっていく。

【塚越】僕自身も初めての場に行くと警戒するし、心が固くなるし、それは誰しもがそうなんだろうな、特に男性はその気があると思うんですけど。そのなかから、どうほぐして、どうリラックスできる環境になっていくかっていうのは、いくつかあるなぁと思ってて。えっとね....
失敗を楽しむみたいなところの空気、みたいな。要は、積極的に失敗するみたいなのは、すごい大事にしていて。その空気感。率先して我々が失敗してみるのを、すごく大事にしてる。それって何かっていうと、大人は子どもよりも、「子どもたちを導く存在なのだ」とかっていうマインドセットだったり、「できない自分は格好悪い」っていうマインドセットだったり、どうしても失敗ができない。
僕ら山に来たら、まず焚き火を着けるっていうふうな、焚き火に火を着けるところから入っていくんですけども。バーベキュー場だったらば、炭があってガスバーナーがあって、簡単に誰でもまあある程度火を扱えるんですけど、僕らの場合ってマッチとファイア・スターターって言ってる火花を飛ばすやつと、あと、そこら辺の枯れ葉、枯れ枝しかないんだね。それで火を着けるって、よっぽどコンディションよかったらすぐ着んですけど、今日みたいな雨のあとは全然着かないんです。それを、最初になんかそれに取り組むと、みんな段々お父さん、「俺はなんかちょっと外で遊ぶの慣れている見とけ」みたいな感じだけど。

【井庭】「見とけよ、お前」って言ってるから、ますますなりますよね。

【塚越】でも、それを笑いあえる空気をつくっていて、俺もできないんだよ、みたいな。俺も実際にできないんですよね、そんなコンディションなんで。そこで初めて謙虚になるというか、それでいいんだっていうか、ガードを下ろせばそれでいいんだ、そんなんでいいんだな、みたいな感じ。完璧じゃなくていいんだ、ゴミがいっぱい落ちている、ゴミじゃない、ジャンク、おもちゃ、ガラクタが落ちている。完璧でなくていいんだっていうことを、実感してもらう機会をいっぱいつくっていて。

【井庭】今の失敗とか、うまくいかないみたいなことがあるっていう以外にも、あるんですか。完璧でなくていいっていうので、ガラクタがあるとか。

【塚越】失敗ってのが、大きい。なので、イカダとかすぐ失敗する、とか。「これやってみよう」って言って僕らは声かけるものの、ゴール・イメージは僕ははっきり持ってないまま働きかけたりするから、当然成功しないことが多いんです。で、そのときに笑い合えるみたいなのが、笑い合った後に、ギュッと一人一人がほぐれるというか、仲間になる。イカダって最近、僕が自分が楽しむかって僕自身の課題で、その、天然素材でやってるんですけど、最初の頃やっぱり面白かったのは、みんなで必死にイカダをつくってちょうどこのくらいの時期3月末か4月の頭ってまだ水は冷たいんですけども、

※Timestamp: 25分3秒

子どもたちと満を持して、「乗るぞー!」って乗ったら、1mも行かないでそれが崩壊したんです。みんな子どもたちは川に落ちる。それでみんなで、ギャハハと笑う。笑った瞬間の良さというか、僕にとっての大失敗の成功体験みたいな感じで残っているんだけど。寒いし、親からしたら、イカダに子どもが乗って海に漕ぎ出すっていう成功のシーンをインスタに上げたいみたいな、そんな感じで望んだのに、全員寒いなか落ちて、ずぶ濡れになって超凍えている、みたいな。でもそれを笑い合っている、そのときの空気のすごい良さ。当然我々の頭のなかにも「せっかくだから成功体験を」、「いい感じで終わらせたい」みたいなのがあるんだけど、その予測を超えてうまくいかなかった時に笑えるみたいなのとか。
最近で言うと、どうやったら失敗できるかなみたいなこと考えたりするけども。それもまたパターンに落ちいっているのかな、みたいなところをぐるぐる回ってますけど。
あの、冒険だから失敗して当然みたいなところがあって、わからない、やってみないとわからないことをわざとやっているだけなので。手堅くできるんだったら全然遊びになんないわけですね、その辺りはやっぱりありますね。

【井庭】その、大失敗の成功体験できる場所、面白いなと思います。ですけど、なんかたぶんその、失敗しないように、失敗しないようには考えないけど、その何かこうなったらいいんじゃないか、こうやってみようと思うことに真剣に取り組むことは必要ですよね。真剣に取り組んだ結果ダメだったから笑えるんであって、中途半端にやって「やっぱりな~」だとやっぱりになるしかないわけだし。「なんでこれでOKしたんだろう」とかそんな話になるわけですから。真剣にやった結果「あれ!? 解体した」みたいなのは。
その塚さんが、その場をこうやって引っ張っていったり仕切ってる人が失敗したときに、最初のときでまだ笑い合えない前は、「おいおいおい」みたいな空気にもなりそうじゃないですか。たぶんそういうのをやろう思ってみた人がやってみたら、「やばい!」とか言って肩身狭くなっちゃうみたいなことってあると思うんですけど、なんかそうならないで行けるのは、何がこう他に効いてるんでしょうかね。ただ単にそれを失敗した「あはは」ってやっても、自分しか笑っていなくて、周りの人は「え?」みたいになってしまうんじゃないかなっていうのが、ちょっとイメージされたんですけど、それが超えられるのはなんでなんですかね、それ?

【塚越】それって何なんだろう、それって何なんだろうなー...

【井庭】それは、他のスタッフの人が「またそんなことやって」みたいなふうに笑ってるんですか?

【塚越】でも、それはわかった、わかったというか。場づくりの通底で我々が結構大事にしているところで、前提として僕らもよくわかんない「共犯者」になってみたいところがあります。だから我々が「提供者」であなたたちが「受益者」ですっていう関係をどう壊しているかっていうところを、結構最初から意識していて。何かっていうと、場がずっと続いてるわけですよね。だからもちろん最初はみんなドキドキして硬かったりするんですけど、そのなかに一人か二人が昔からいる人とか、すごく場のことをすごく理解しているもう身内と言ってもいいような参加者が必ず入っている。その人たちの役割はすごい大きいんだろうなと思っていて、彼らが道化になってる。彼らがつくってくれてる空気って伝播していくみたいなのがすごくあるような気がして。それはどうやってその人たちがそうなっているかっていうと、そこは一緒に「共犯体験」をいっぱいしてるから、小さな失敗をいっぱい繰り返しているから、というか。
我々スタッフが、その、僕はバン!と開くけど、他のスタッフもそれぞれがいろんな親と子と関係性を結んでる。参加者同士も関係性があったりするっていう。何となくそういう共犯関係の構図になっているから、「イカダやるって言ったじゃないですか!できなかったじゃないですか!これどういうことですか!」みたいなことが、なんとなく言えないというか、そうじゃないというか。「そりゃ、この人たちもわかんないよね」みたいな空気になる。

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