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「自然に遊び心が発動される場づくり」のマイニング・インタビュー文字起こし Part 4

慶應義塾大学SFC「パターンランゲージ」の授業のために行った、「自然に遊び心が発動される場づくり」についての、原っぱ大学 塚越 暁さんへのマイニング・インタビューの文字起こしの続きです(Part 1は、こちら)。

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※Timestamp: 90分31秒

【塚越】丸く収めたくなっちゃいますね。一番最悪なのは「ごめんなさいって言いなさい、ごめんなさいって言いなさい」、「ごめん」「ごめん」って言いあったらOKみたいな。それ誰のためのOKというのは、たぶん仲裁の大人とか、見ている大人のためのものですよね。

【川邊】塚越さんはそういう場面に遭遇したら、どう振る舞われることが多いんですか?

【塚越】僕の手法ですよ。僕の手法は、間に入って僕が敵になります。二人がこっちを攻撃してくる。そうすると仲間になる。ちっちゃい年の子は、それで行けますね。やっぱり一番ややこしいのは小学校3年生4年生ぐらいで、それはまさしく発達段階として、そういうふうに他者と衝突するっていうことが必要な段階なのかもしれないですよね。私ちゃんと学んでないんでわからないですけど。
そこが一番とっちらかるし、あの、変に仲裁するとこっちの信頼関係が崩れるから、そこはお互い一回冷静になってお互いの話を聞いて、みたいなので。向こうには別のスタッフが入ってもらって、こっちの話をじっくり聞くというふうにしたり。

【井庭】他のタイプの人で、この仲裁の仕方、うまい人はいますか?入り方とか。

【塚越】お母さん的な人がうまいですよね。もう、バチ!と止めちゃう。「やめ!!」みたいな。ガッと離して向き合う、みたいな。瞬発力って大事なシーンがあって、そこに躊躇があると止まんないんだけど。パッパッ、ピッ!みたいなお母さん的な瞬発力、問答無用みたいな。たぶんに身体性とか空気感に結びついているから。引き剥がして視界から消すみたいなことは、すごくある。人間関係、何でもそうですけど、アワワ、アワワとやっていると、どんどん悪化するので、先手必勝。あと、入るタイミングがはっきりしていて、石を持ちだしたら入る、みたいな。その人なりの制御するタイミングが、はっきりしてる。

【井庭】まぁ、まだ大丈夫だな、と思うところと、ここから先は良くないぞ、と。

【塚越】確信があるから、ここから入る、そうすると迷いがないし、あそこまではいいけど、石持ち始めたらだめじゃない?みたいな。だって怪我するからっていうふうに言うと、「そのことに関しては、ごめんね」って言う。「でも、お前さ」と話が始まるとOKなんですよ。「ここまでは、ごめん」っていうことが言えると、なんか次の対話になるっていうか、「じゃあ、分かった。そっちは俺が悪かった」って。3年生4年生ぐらいは、そのコミュニケーションができると結構クリアになります。そうすると、次の瞬間には一緒に遊んでる、みたいな。

【井庭】行き過ぎたところは確かにと思えるからね。ただ元々の経緯としてはこうだよなってことで割り切りができてくると、落ち着くし。
あとちょっと聞きたかったのは、いくつかまだあるんですけど、「フロント」と「寄り添い型」と「大人と話す」みたいな以外に、何かスタッフのなかで、特徴とか方向性とかそういうのはあるんですか?

【塚越】いろいろと場を形つくるなかで、だいたい今で言うと、まぁ、コロナ下でいうと、十五家族ぐらいだから、四、五十人に対してスタッフが五、六人かな。

※Timestamp: 95分5秒

なんですけども、道化型、フロント型というより、道化型でパーンと入っていく人と、それとは別に必ず今、スタッフの布陣で置いているのは、監督ポジションっていうか道化型がそのプレイヤー・ポジションだとすると、俯瞰して全体を見ているポジションがたいてい一人は居るようにしています。それもやっぱり、キャラクターに根付いていて、そういうのが得意な人っていうのはいて、それは常にビジネスライクに、って言ったらあれですけども、冷静に場の全体を把握していて、それは安全の面もそうだし、人の心のコンディションみたいな面も、あぁそこにポツンとしてるとか、あそこは一人でいるけど実はそれが好きでいるから大丈夫とか、それはそれまでの関係性とか、僕らは当然何回も会っていくなかで、この人はこういうことが好きとか、こういうことが嫌いとか、今ここでちょっとその発動するまでに詰まってるみたいなことは、それぞれの情報というか、人を知っているので、それを見てそこに誰か行ってほしいな、みたいな、あそこサポート必要じゃん、みたいなことを見る。アメフトの監督みたいなんですね。スタンドから見てる。もちろん一概に言えるわけではないので、個別の関わりもしながらだけれども、そうやって全体を見るという役割、役割というかそういうのが特に得意な人、気づくっていう人たちとか。
あとは、これもすごいなと思うんだけど、自分からは積極的に行かないんですよ。そのさっきのエレメント的には、僕は「木」のエレメントっていうふうに言ってるんですけど、その場にいる、でも子どもはこれやりたいって言ったときには、ちゃんとそこになんか寄り添うというか、一緒に乗れるというか、そういうふうに見えるんだけど、ともすると受け身に見えるんだけど、でもそこでちゃんと受け取る、太い木がドンとそこにあるみたいな感じで安心感をつくってくれる。

【井庭】それは、きっと何か、そういうふうに、こうしたいって言うということを誘発する何かを発信してるんでしょうね。

【塚越】そうですね、でもね、積極的に発してはあんまりいないかもしれない。だから、ちょっと僕なんか、自分なんかはやっぱり行為としてやりたいこと、いっぱいあるわけです。これやったら面白いかな、これやったらワクワクするかなって、それを投げつけることによって相手のレスポンスに対して、そういうキャッチボールに喜びを見出す感じなんだけど、今言った「木」みたいなタイプは、多分ね、何でもいいんですよね、どちらかっていうと、そこの関係性とか、そこでの、そのOne to Oneとか、One to 複数の、そこで起きている、その引き出されている感じというか、そこを楽しんでみてて、行為は別に何でもいい、みたいな。なんかそういう感じで接してる人たちはいるな、それはそれで、
僕なんかは、逆に、パーンと発動するけど、飽きっぽいから、自分が興味なくなったら別のことやりたくなっちゃうんですよ。だけども、そういうスタッフは繰り返しやる。遊びの細かな変化にちゃんと寄り添って、コミュニケーションをずっと続けてるから、ある特定の子とすごい深い関係を結んだりするかな。

【井庭】そうなんですよね、繰り返し好きですよね。小さい子ね、特に。

【塚越】そうですね。

【井庭】同じこと、え!まだやんの!みたいな。僕もう飽きたよ、みたいな、僕の方が早く飽きて折れる、みたいな。

【塚越】僕はすぐ逃げ出したくなっちゃうんですよね、そういう場だと。

【井庭】おじいちゃんおばあちゃんは、結構それに付き合ってくれて、助かるわぁ、みたいなことがよくありますね。

【塚越】これもやっぱすごく大事。延々と、その、弓矢をつくったら、弓道場で弓矢を射続ける、三時間それしかやってなかった、みたいケースもあって。でも、そこにはやっぱり人は居続けなくはいけなくて。そこも、表面だけ遠くから見てると、ただ弓矢を射続けてるだけなんですけど、いろんな工夫と試行錯誤とが実は起きてたりするんですね。たぶんそういう場に居続けられる人たちは、やっぱりそこに対する解像度が高いというか、子ども自身の変化、関係性の変化、そういうやれることの成長、みたいな、そういうところに喜びを見出してやってくれてんだろうなぁって、いう。

※Timestamp: 100分4秒

【井庭】それが「木」ですよね、最初はフロントが「火」で、今のが「木」で、あとは、監督とか寄り添いはなんですか?

【塚越】「水」っていうふうに言ってて

【井庭】監督が「水」。

【塚越】言ってて、っていうか、全然これスタッフには浸透してないんですけど、僕の見方だけなんですけども。

【井庭】イメージだけ聞いておこうと思って。

【塚越】「火」が燃えすぎると、「水」はバシャっと水をかけるわけですよ。

【井庭】俯瞰しててね、ちょっとやり過ぎですよ!もうちょっとこうしましょう!みたいな。 

【塚越】ちょっと!って言って、とか、「木」に水をあげたり、っていうどこにでも、流れていくっていう。もう一つが「土」っていうふうに置いたのが、それはその大人の話を聞くのがすごい上手なスタッフ。大人のいろんな声を土はこう吸収していくみたいな感じで、そうだよね、そういうことだよねっていう、その安心感ってすっごく必要としてる人たちがいて、そうやって家族でもない、近しい友達だと逆にかえって言いづらい、みたいなことをポロポロッと話せる。

【井庭】「土」ですね。あと、あの蟻を見てる子に寄り添うとか、それはなんて言うんですか?

【塚越】それは「木」の子ができるんですけど、あともうひとつは、「風」っていうふうに置いてて、「木」よりももうちょっと自由というか、動き回るというか、まさしく隙間を見つけて、こうヒューッと行くみたいな。
当然なんだけど、「火」が起きてるところにみんなの意識がファーっと行きがちなんで、そこにもちろん司令塔である「水」は全体を見てるんだけど、「風」はもうそこ感覚として、嗅覚として、「あ、そこで一人」って見て、スーッと寄っていって。「風」って僕が呼んでる人たちがすごい上手だなぁって思うのは、距離感のとり方なんですよね。間合いの取り方というか。「見守る」っていうと語弊がある。なんかなんかすごく保育っぽいニュアンスになっちゃうんですけど、そうではなくて、意識を向けているって感じで、危ないと思ったらさっと手が出るし、必要だと思ったらなんかキュッと寄ってきたり、声をかけるんだけども。でも、「見守る」と何が違うんだろう。「見守る」じゃないんだよ。

【井庭】「見守る」は包んでる感じだけど、「風」はスーってこう存在感もなく、隙間に入るみたいな感じですね。そういうやっぱチームで全体の場が多様なかたちの多重になってるとか、編み上がってるような感じがするんですね、その場が。

【塚越】かつ、場もやっぱり、進化してるんで、その最近面白いなぁと思うもは「火」が必要なかったりするわけですよ。僕がいらない場が立ち上がってきていて、やっぱり「火」って強烈なんだけどある種、エンターテイメントになっちゃうんです、つまり、受け身になりがちなんですよね。何が起きてるかっていうと、やっぱり僕自分でも、場に立つとそれなりに強烈だから、「ガクチョーと、ほら、遊んで来なさいみたい」になってくるんですよ。「ガクチョーと遊ばないともったいない」みたいになっちゃったりして。
でもそうじゃないというか、僕らの目指す方向は、そこまでの、もっと自立的というか、自発的というか、自分の中から立ち上がってくる遊びに委ねていいじゃんっていう話で。たぶん、原っぱ大学も当初、黎明期はやっぱりそういうある種、象徴的なうねりをつくり出すっていうことが、すごく大事で、まずは泥んこになるとか、まずはなんとかっていう、そういうダーン、っていうところからリズムをつくっていくっていうパターンしか持ってなかったんですけども、今その場のイメージが5、6年続いて、場が脈々とつながるなかでいうと、そんなことなくても人間は遊べるっていう、そんなパターンも我々は持ってきていて。
自分は、リトルコースっていうちっちゃい子のコースにはほとんど行ってないんですね。そこで話を聴いて衝撃的だったのは、それまで僕がホールドする場っていうのは、まず人が集まったら、「はーい!みなさん」っていう話をして、「今日はこれやって、これやって、これやって。やろうぜー、ウェーイ!」といったような非常にアトラクティブな、といった感じで。

【井庭】お天気お兄さんみたいな感じね。今週は何やってくれるんだろう、今日は何やってくれるんだろうっていったような感じですね

【塚越】はい それはある種必要だと思うんですけども、実はリトルコースに自分が入らなくなったのも、ちょうどコロナのタイミングだったんで、あんな大声でみんなに声をかけられないっていうのと、集まってみんなできないっていう制約的条件と、僕がいないっていう両方があったらしんですけど、場に来てそういう声がけをしないっていうオペレーションしてるんですよね。してるっていうのを後から知ったんですよね。

※Timestamp: 105分2秒

でも、いろいろな経験値の人たちがいて、まず場に来たら焚き火をするって知っているし、事前にSNSでやりとりをしているんで、今日は染め物をするとか、今日は餅つきをするっていうことを知っているんで、ふわっと集まってきて、ふわっと焚き火が始まって、ふわっと染め物が始まったり、誰もほんとにセンターがない状態で遊びが始まるっていうことが発生してるんですよね。それがすごいなって。それこそ、ジェネレーターのレッテル的にいうと、すごいことで、中心のない場自体がジェネレーティブなんだけど、本当の意味での焚き付け役のようなジェネレーターがいないけど、ジェネレーティブな場が立ち上がるっていうことをつくっていてくれて、面白い!ってなってる。

【井庭】面白いですね。それは場自体にジェネレートの仕掛けというか、設計が宿ったっていうことですよね。そのコミュニティと人に。

【塚越】あとは、そこを仕切ってくれている人が、僕とはキャラクターが違うんですけど、その人がいるから、安心感が他のスタッフだったり、参加者にあるとは思うんですよ。でも、その振る舞い的には、「火」的な振る舞いはあえてしてないでジェネレートしていくっていうのが面白いなっていう。

【井庭】なるほど、なるほどね。やっぱり「火」はスパイスというか、最初の駆動では、重要だけど、ある程度動き始めると、もうちょっとゆるく自由に始まるみたいなことが起きてきて、たまに、やるっていうのがいいかもしれないですね

【塚越】そうなんですよ スパイス、一要素にしか過ぎなくて、必須ではないというのがすごく面白いなーっていう

【井庭】それは場とか、コミュニティっていうか、人たちの遊び心が発動される、そのモードになっているからであって、いきなり、そういう場でいきなり始めようかっていうと、みんなが遊びを発動させない制約、日常的な歯止めが効いてるなかだと、やっぱりそういうなかだといかないから、最初崩すときに「火」みたいな人が必要で、その人たちの経験をして、外れてくると、枠が外れてくると、そういう人たちでゆるやかに場が始まるっていう感じかもしれないですね。
ちょっと次の話題に行きたいんだけど、今の話題でもうちょっと聞きたいこととかってある?だいじょうぶ?

【川邊】「火」がなくても、どんどん遊びが生まれてくるっていうのは、その前のさっき真んなから辺にあった、準備はめちゃくちゃやるっていう、それがあってからこそなのかなとも思ったりするんですけど、準備をするっていうのは、何が大切なんですかね?

【井庭】いいね、いいね、いいね!何を準備するのかってね。

【塚越】一つは、やっぱりくる人を把握しておくっていうことで、今日来る人がどういう人で、っていうのをスタッフ全員が共有しておくっていうことで。この人たちはこうで、この人たちはこうで、っていうのを共有されているっていうことで、やっぱりOne to Oneの関係を築いていくので、対人っていう面での準備ができている。そういう意味で、前来たときにこういうことがあったとか、この人はこういうことを大事にしているっていうのを共有されることがすごく大事で。そこは僕がいないリトルコースの場合は、すごく大事でした。一人一人だからこそ、何か起きたときに寄り添えるっていう。そういう意味合いにおいての、関係性つくりが大事だということが一つだと。
もう一個は、今日いったい何をやる?っていうことが明確化されているので、そこに向けてある程度の外れることもあるんだけど、流れっていうイメージ スタッフが迷わないために大事だっていうことがあって、そこにいくための、材料だったり、道具だったりは事前に、その日の運営責任者の人たちが、これは例えば、今日は絵の具でベタベタ描くよっていうときに、青一色しかないみたいな状況は、何ていうかものすごい燃えていかないので、そのための十分な準備、例えば、ノコギリで何かを切るっていう時に、ノコギリが2本しかなくて取り合うっていうことがないように、道具と材料とがある程度ちゃんと行き渡るようなことを考えて用意しておくていうことが、それがハード面ですね。å

※Timestamp: 110分4秒

【井庭】それはやっぱり、ジャブジャブにしておくっていう感じありますか? 

【塚越】僕はそこがすごい大事ですね。余分な材料がいっぱいありますし、余分な道具がいっぱいありますし、ジャブジャブだからこそやりやすい。

【井庭】そうですよね。だから遊べるっていうか、失敗しても大丈夫だし。一個しかないと、成功させなきゃっていう意識が高まるし、順番を待つっていう感じになりますよね。

【塚越】そうですね 僕らはホームセンターだったり、何よりもダイソーさんのおかげで成立しているので、地球環境的にどうなんだっていうのもあるんですけど、道具一つとっても高価な道具だと、「お前、それそうするなよな」みたいな感じで、いいのかどうかは別で、ある程度壊れても仕方ないかって思う安価なものを揃いていく、そうすると、こっちもおうらかになれるし。
委ねられるための準備はすごいやってますね。それはさっき言っていた、「火」がどうとかではなくて、どの場でもそこはすごく徹底して準備している。それは当然コストが絡んできてしまうので、自分とかは気にしないでガバッと買ってしまうんですけれども、そこが腕の見せ所で、ジャブジャブにしすぎないで、でも発動するんだよっていうギリギリのラインを探ったり、そこにまた工夫が生まれたりするんですけど。仮説というか、何となくの仮のストーリーラインを用意しとくんです。でも、そこに縛られないで、そこを飛び越すっていうのが醍醐味で。

【井庭】原っぱ大学の話を聞いてて面白いなって思ったことが、Google、100円ショップ、ホームセンターみたいな、自然で遊ぶんだから、本格的なノコギリを、とかっていうのじゃなくて、安物なんだから切れたらいい、みたいなところもあるわけじゃないですか Googleで調べるとか、そういうあたりの軽やかさと、自然の中でっていうディープに楽しむってことと、ところがあるなって思いますよね。そこが使う道具もより本物にとか、質の高いものをっていうところは追い求めないで、今言っていたような安いからこそ、壊れても大丈夫だからこそ、子どもに委ねられるっていうところとか、思い切りやってみて、折れちゃったらしょうがないかな、とか、っていうのが、おおらかさにつながるっていうポイントな気がしますよね。

【塚越】なんか、そこはやっぱりすごく大事にしているところで、僕らやっぱり、自然教育系の団体とはあんまり、話が合わないんですよ。

【井庭】木にペンキ塗ったりするしね。

【塚越】そこは結局、ジャッジになってきてしまうんですよね。それってSDGs的にアウトだよねっていう、サステイナブルじゃないよねっていうと、遊びが死ぬんですよね。もちろん大事なことだと思うんですよ、サステイナブルだって大事なことだと思うんですけど、僕らがやっている原っぱ大学というの場においては、そこでというメッセージ性だったりとか、それが正しい人類がこの先続いていくためには、それが必要だから、プラスチックがどうちゃらこうちゃらみたいなことではなくて、そこは一旦もちろんあるのはわかっているんだけど、それが正しいからこうじゃなくて、遊び心がどうやったら発動できるかっていうことに重きを置いているっていう部分は多分にあります。

【井庭】だからあのその別に否定するわけでもないけど、重視してないわけでもないけど、第一義をそこに置いてるってわけじゃなくて、とにかく遊び心発動するということ自体が第一義にこう一番追い求めているものだと思うんですよね。

【塚越】正しさっていうものは遊びに入れた段階で、遊びじゃなくなっちゃう部分が多々あるなぁっていうふうに思うから。

【井庭】あと、あの、面白いのは学びとの話ですね、あの僕らの仲間内でもそういう話なったときに、すぐ僕らは「つくることによる学び」みたいな、学びの方に持ってくけど、学びはまあ結果としてあるかもしんないけど、別に学びを求めてるわけじゃないんだ、って塚さんはよく言ってる。

【塚越】ほんと、そうです。学んでくれれば全然構わない、全然構わないっていうか、ありがたい話ですよね。

【井庭】実際いろんなこと学ぶと思いますしね。でも、学びが目的じゃなくて、遊びが目的だという割り切りも、すごく重要かなと。そこは一緒にしちゃうと、急になんかこれで何が学べるかな、これで学んだかな、みたいなふうになってしまって、遊びじゃなくなっちゃって、学びになる、みたいなことがあるので。

※Timestamp: 115分2秒

遊びが中心で学ぶのはもう勝手に、こう、それぞれがどうぞ、みたいなふうにして、そこが開かれているみたいなとこあるなって。

【塚越】そこは徹底してますね。

【岡】なんか、その遊びのところで、なんか興味がなくなったら、なんか途中でやめるみたいなことってあるんですか?

【塚越】いやもう、そんなんばっかりです。

【岡】あぁ、そうなんですか!

【塚越】だからそこはもう大人が...試されてもいないのかな。もうほんとそこに対して自由だから、そういう中途半端なものがそこかしこに転がってるし、興味はなくなったから止まってしまったことだらけなんだけど、それはね長い目で見てやるとすごい面白くて。もちろん危なかったりすると、ちょっと撤去したりするってことはもありますけども、誰かがつくりかけた何かみたいなやつがそこかしこに残ってるから、そこからまた何かを始めるかとか、やってみたけどつまんなかったからこっちやるとかばっかりです。逆に、やりきることが少ないんじゃないかっていう。

【井庭】そこもいいですよね。そういうのがゴロゴロ転がってるのってないじゃないですか。だいたい「やめたなら、片付けなさい」の世界だし、「邪魔だからのけましょう」の世界だし、今はね。だけど、それはいいですよね、まさに自然な、というか。

【塚越】僕は一人で誰もいない山を、そこを、フィールドを歩くのがすごく好きで。こんなところにとこにこんなのがあるみたいな、「なんだ、これ?」みたいな。見ると、いろんな痕跡が残ってるわけです。「これ、そうそう。これ、昔こんなふうに使ったよな」とか「なんか、こんなになっちゃって」とかっていうのがすごく面白い。中途半端さを獲得していく。

【井庭】整えられてない感も、やっぱりマインドの方に影響しますよね。

【塚越】いやすごい影響すると思うんです。だからこそ...でもだから逆に面白くて、さっきの「逃走中」の話じゃないけど、突然ゴリゴリのルールみたいなのをやると逆のスパイスになったりして、「やってもやらなくてもいいよ」って言ってんのに、一回、その、僕は冬場なると探検って、山の中に行くんですけど、普段は来てもいいよ来なくてもいいよみたいな話なんですけど、一回なんか、この場は連れてった方がいいなと直感して、「全員参加!強制です」みたいなのをいうと、渋々なんだけど、ついてくるみたいな。ときには、そういうのもスパイスとしては面白い。

【井庭】そもそもゲームっていうこと自体が、まあ遊びもそうですけど、何らかのルールがあって、そのなかで遊ぶわけですよね。それをこうある意味みんなで受け入れようみたいなとこから始まって、そのなかで崩れていったりとか、そんなかなんだけど、どうずらせるかみたいなところが面白かったりっていうのはありますね。たまにはそんなのも。ルールをまったく無くすっていっちゃうと、またそれはそれで不自由というか、遊びじゃなくなっちゃう感じがあるんですね。

【塚越】やっぱり、可変な場なんだと思うんですよね。常に我々スタッフも問われ続けてるというか、固定した段階で負けというか。場が死ぬ、というか。そこにどれだけ委ねられていられるかっていうことは、問われ続けてる。でもちろん、それを大人にも問うているし、子どもにも問うているし、そういう意味ではやっぱりみんなが共犯関係、ボーダーレスな関係ってなかで場が生成されてる。

【岡】共犯関係の話でちょっと一回聞きたいんすけど、もし自分が原っぱ大学的なことをするとしたら、共犯者って最初はいないじゃないですか。あれってどういうふうにつくっていくのかっていうのは、なんか自分の設計があったのか、それとも自然的になっていったのか、気になってて。

【塚越】何かね、でもそれは結構設計というか、最初から意識してたののかもしれなくて。あの、原っぱ大学の価値って、まさしくその共犯者というか、つまり主体者ですね。要は、受益者じゃなくて、主体者になれるっていう場が特に大人にとっての価値だっていうふうに最初から思っていたんですよ。それはそういう場がないから。常にサービスの提供者から物を受け取る、つまりお金を払って価値を受け取るっていうことに、都市部で生活してる大人はうんざりしてるんだろうなっていう、それは自分自身の感覚もあって。それが原っぱ大学のサービス、これが商売として成立するっていうふうに思った、最初のきっかけだった気がする。

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