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Mikhail Lopatin氏によるDavid Wilson氏インタビュー「A coming of age story」の翻訳

 この記事は、2020年8月23日に公開されたMikhail Lopatin氏によるDavid Wilson氏とのインタビューを日本語に訳したものです。
 翻訳にあたり、原著者のMikhail Lopatin氏に了承をいただき、査読していただいた上で公開の許可を得ております。
 インタビュー内容を転載、引用する場合は、転載元を示す本noteのURLを付記願います。※全文の転載はおやめください※

著者:Mikhail Lopatin

英語による元記事
«A coming of age story»: David Wilson talks about his collaboration with Shoma Uno

ロシア語による元記事
«История взросления»: Дэвид Уилсон о работе с Шомой Уно

<a coming of age(新しい時代、成人を迎える)ストーリー>

宇野昌磨とのコラボレーションを語るDavid Wilson


 David Wilsonの紹介はほとんど必要ないでしょう。30年もの経験を持つ著名な振付家であり、記憶に残るプログラムを作ったスケーター達を挙げると長い行列が出来るほどです。中には世界選手権や――オリンピックでの勝利にも貢献しました。一方で、何も受賞しなかったスケーターもいますが、とにかく痕跡は残しています。彼の顧客の中には、1990年から今日まで、それぞれの世代で最高のスケーターもいます。伊藤みどり、マリー=フランス・デュブレイユとパトリス・ローゾン、キム・ヨナ、ハビエル・フェルナンデス、羽生結弦、その他多くのスケーター達など。

 つい最近、この長い名簿に新しい名前が加わりました。それは宇野昌磨――オリンピックの銀メダリストであり、世界選手権でも二度銀メダルを獲得、全日本選手権では四連覇を果たし、2019年四大陸選手権の優勝者です。
比較的新鮮なこのコラボレーションが今回のDavidとのインタビューのメインテーマですが、話の焦点は決して昌磨だけにとどまりません。インタビューを通じて、Davidはコーチとして、振付家としての30年に渡る過去の仕事の思い出を、惜しみなく教えてくれました。

 昌磨以外にも、読者の皆さんはこのインタビューの中心を取り巻く、過去と現在両方で馴染みのある名前をたくさん見つけるでしょう。メインテーマとは宇野昌磨だけではなく、彼の名古屋にあるスケート教室、コーチ、日本フィギュアスケート界の豊かな伝統――その中でも昌磨は今や一つの不可欠な――ほぼ典型的とも言える――役割となっています。

名古屋スケート教室での宇野昌磨とDavid Wilson。2019年8月(ソース

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序章. 過去:名古屋のスケート教室 1997-2003

-David、あなたと宇野昌磨とのコラボレーションを大局的に捉え、それを状況に当てはめることからこのインタビューを始めたいと思います。
私の知る限り、1990年代に名古屋のスケート教室で非常に多くの振付をされましたね。伊藤みどり、中野友加里、恩田美栄、その他、伝説的存在である山田満知子が見ていた多くのスケーター達に。

David Wilson(以下DW)「Yes!復帰する伊藤みどりの振付を頼まれた事から全てが始まったんだ。彼女は1998年長野オリンピックへ向けて競技にカムバックする予定だった。

 それで、1997年に日本に来てショートプログラムとフリープログラムを振り付けしてほしいと依頼されたんだよ。当時、彼女はプロフィギュアスケーターで、前回のオリンピックから数年間、競技から離れていた。
 僕もまだ当時は若くて――僕はたった3歳、みどりより年上だったんだ。僕はとても若くて、どちらかといえば経験の少ない振付家。世界的レベルのスケート選手には、一人か二人しか振付をしたことはなかったんだ。だから僕にとっては大きな任務だったし、非常に光栄で――そして恐怖だったよ!

 僕は準備万端で日本に来た。みどりと、コーチの山田満知子のために音楽を見つけて……山田満知子は素晴らしい女性だ……僕は彼女のことを日本のソフィア・ローレンと呼んでるよ。とても魅惑的だし、立ち居振る舞いがほとんどヨーロッパに近くて。

 彼女は僕の面倒を見てくれて、オリンピックの2~3ヶ月前にみどりは復帰しないと決めたけど、僕がみどりのためにした事をすごく気に入ってくれた。

 僕はみどりのショートプログラムとフリープログラムを全部振り付けたし、2~3回日本へ渡った。日本の協会と審査員に、プログラムを評価してもらうよう相談した――みんな本当に大興奮だったよ――それでも彼女は復帰しないと決めたんだ。
 僕は途方に暮れたよ。僕たち振付家は、通常、自分のエゴを脇に置くようにする。だけど人生には、すごく胸が踊るような事が起きる時もある――自分に誇りを感じないでいるのは難しいくらいに」

-みんなにそのプログラムを見てほしかった? 

DW「ああ、見てほしかったよ!みどりはジャンパーとして、そしてリンクの壁を壊した(訳注:1991年世界選手権@ミュンヘンでの出来事)可愛い小さな日本人の女の子として知られていた。みどりのことを知るようになって――彼女には(スケート選手としてだけでなく)一人の人間として、非常に興味深いストーリーがある。そして愛らしく、素敵な人だ。一緒に協力し合うことができて、本当に素晴らしい時間を過ごせたよ。僕たちの作品はすごくいいものだったと思う。みんながそれを見ることができなくて、本当にがっかりしたね。

 だけど、山田満知子先生は僕の働きを非常に気に入ってくれて、その次の年もまた招いてくれたんだ。ビックリだったよ!僕の日本のスケート界への進出は、始まる前に終りを迎えてしまったと思っていたから。

 みどりはプリンスホテルが行うアイスショーでツアーをすることを決めた――日本の中では大きなツアーで、何ヶ月もかけて毎晩滑りながら日本中を旅するんだ。

 山田満知子先生が、みどりのためにショーのプログラムを2曲振り付けてほしいと依頼してきて、それと同時に彼女が教えていた小さな女の子達にも振り付けを始めたんだ。中野友加里は9歳くらいのノービスクラスだった。愉快で目を見張る女の子だったね!

 山崎愛里彩は才能あふれるジュニアの女子だった。そして恩田美栄もいたね。他にもたくさんのスケーターがいたよ。僕は3週間の間日本にいて、1日10時間くらい働いていたよ。山田先生たちは、小さな男の子達が滑るオープニングも僕に振付をさせたがってたね――全部僕がやったんだよ!そして自分でも楽しかったなあ。
 6年やったんだ。6年連続で一年のうち2~3回日本へ行って、その都度2~3週間滞在していたね。僕の30代は全て日本での仕事に費やしたよ」

1. 宇野昌磨との連携、2016-2020

-では、2010年代の昌磨とのコラボまで早送りしましょう――どのように始まったのか教えて頂けますか?あなたが彼に初めて振付したのは、2016-2017シーズンのエキシビションナンバー「This Town」でした……

DW「そうだね、昌磨のフリープログラムの「Dancing on my own」の前に二曲を作ったよ。一曲目はナイル・ホーランの「This Town」、二曲目はハリー・コニック・ジュニアの「Time After Time」。
 僕たちは少しだけ信頼関係を築いたから、彼のことをちょっと知っていると君は言うかもしれないけど、とはいえ、一年のうちたった一週間、また別の年に一週間しかなくて。あっという間に終わったんだ。
 だけど昌磨陣営が僕に競技プログラムを依頼してきた時、僕たち二人にこうした経験(エキシの二曲を振り付けた経験)があったことに感謝したよ。

【2018年四大陸選手権のthis town】

【2018年プリンスアイスワールドのtime after time】

 特に、既にスター的存在で何らかのチャンピオンであったり、メダルを持っていたり、いわゆる「high-end(最高級の、高性能の)なアスリート」とでは、その人を知らない場合、彼らのために曲を決めて、どのような方向性で行くか決めるのはとても難しいと僕は考えている。
 彼らのスケーティング、動き方、スケートのやり方、そして氷の上でのpersona(人格、役割、仮面)などは知っているかもしれないけど、必ずしも彼らがどんな人で、性格やその魂にどんなセンスがあるかまでは知っているとは言えない。
 そして僕にとって、アーティストという立場として、一番興味をそそられるのはまさしくそれなんだ。
 スケーターたちが以前やったことという点で言うと、氷上でのpersonaには、僕はさほど興味をそそられない――その人物のことを知ることや、スケートも含めて、彼らがこれまで見せたことがないもの、あるいはこれまでに経験したことがないものを引き出すことに興味が湧くんだ。

 だから昌磨にもそのよすがを持てたことはラッキーだった。彼のことをよく知っているとは言わないけど、彼のエージェントであるオオハマ コウジとのたくさんの話し合いを通じて、昌磨と再び近づくことができた。オオハマ氏はその時の昌磨の人生に何が起こったか――スケート人生も含めて――についてたくさんのことを教えてくれたんだ」

-この招待は、なにか特別なものだったのでしょうか?それとも長い付き合いのある名古屋のスケート教室との協力関係の一端だったのでしょうか。

DW「実際のところ、名古屋と仕事をしてきた過去とは関係ないんだ、全く。当時昌磨のコーチは樋口美穂子先生だった。僕もよく知っているんだ、彼女は山田先生のアシスタントで、小さな子どもたちにたくさんの振付をしていたからね。みどりのこと以外で、樋口先生は僕のことを全部手助けしてくれたよ。いつも一緒にいたんだ。

 昌磨のエキシ曲を初めて依頼された時、昌磨はまだ樋口先生のところにいたし、2曲目もそうだった。だけど昌磨のエージェントが競技プログラムを依頼してきた時はもうそうじゃなかったんだ。僕にとっては悲しかったよ。名古屋のチームの元へ帰るのは楽しかったからね。ちょっと残念だったんだ、本当に。
 (僕に振付を依頼する)アイデアは、昌磨、昌磨のエージェント会社、昌磨の母親から来たんだと思う。みんな僕とコラボすることに興味があったらから。昌磨の元コーチ陣とは関係ないと僕は思うよ。そうでなければ、2~3年前に依頼してきただろうね」

-あなたが以前に受けたインタビューでは、スケーターと振付家の長期間のコラボにおける、調和の重要性を強調していましたね。
 親密な関係の数年後に、ようやくその連携の結果が見えるのだと。この観点で、昌磨とのコラボレーションをどう評価しますか?昌磨に振り付けたエキシビションナンバー二曲、競技用ナンバー一曲は、現時点で正しい変遷と発展を遂げたと言えますか?

DW「僕がいつもそう言ってるのは、正直に話すと、僕はキャリアの最初からとても甘やかされてきたからなんだ。僕が最初にコラボしたスケーターの一人はSébastien Brittenで、彼は超ゴージャスで、輝くような才能あふれるカナダのスケート選手だった。1995年にカナダフィギュアスケート選手権で優勝している。彼もまたトップメダリストの一人で、1994年のオリンピックにも出場したんだよ。彼の年代で最も美しいフィギュアスケート選手の一人として世界中で高く評価されたし、仲間からも尊敬されている。
 当時の審判団は彼にこう言うだろう「ああセバスチャン、一回でもトリプルアクセルを跳べたら表彰台に上がれるのに!」
 彼はトリプルアクセルに苦労してたけど、それでも全てを持っていたんだよ。
 僕がこの仕事を始めた時に二人で始動したんだ――文字通り、僕が教え始めて一年経たないうちに、僕は彼の振付家になった――約10年近く、一緒に仲良く仕事をしたね。僕にとって素晴らしい教えの経験だった!
 僕は彼だけじゃなく、彼のコーチにも恩義を感じているよ。発展、成長、そして学びを得られた全ての時間にも。
 それから長い付き合いがあったのは、ジェフリー・バトル、ジョアニー・ロシェット、シンシア・ファヌフ、たくさんのスケーター達。それからアメリカのアリッサ・シズニーも……」

-そしてもちろん、キム・ヨナとハビエル・フェルナンデスも。

 何をおいても、キム・ヨナはサンデーに乗ったチェリー(訳注:物事を完璧にする最後の仕上げ、ごほうび)だった!彼女はただ僕のところに来て家に帰るだけじゃなく――滞在することに決めたんだ。だから四年間、彼女とやり取りしていたよ。彼女相手に仕事して、振り付けた作品を一緒に発展させて。彼女がブライアン・オーサーのもとを離れてからも、僕のことは仕事仲間として関係を持ち続けてくれた。二年以上、何度も彼女とコーチのピーター・オペガードと仕事をするためにカリフォルニアへ行っていたよ。それから、彼女が韓国へ戻ってからは、僕を韓国へ呼んでくれたね。彼女がプロフィギュアスケーターとなっても、僕は彼女との仕事を続けているよ。

 これら長年のコラボレーションがもたらしてくれたものを考えると、僕は本当に甘やかされてきたね。もちろん新しいアスリートと一緒に仕事をするのはいつだって楽しいよ。だけど心の奥では、いつもこう考えているんだ。これは一回限りなんだろうか?毎年新しい振付家を使うのがトレンドなんだろうか?ルイ・ヴィトンのバッグを買う、グッチのバッグを買う、アルマーニのバッグを買う、そして最初に戻る。それに僕たちは今、素晴らしい振付家がたくさんいる時代に生きている。たくさんの振付家!シェイ=リーン・ボーン、ジェフリー・バトル、ローリー・ニコル、トム・ディクソン。彼らはコンスタントに素晴らしい作品を作っている。ゴージャスで革新的な振付をするブノワ・リショーだっているし、信じられないくらい優れたロシアの振付家も、イタリアの振付家もいる。

 僕たちは振付が真価を発揮する時代に生きているんだ。今、振付家は本当にロックだよ!一時期、(注目されるのは)コーチだけだった――振付家はちょっとした末端的存在だったんだ。有名な振付家もそれほど多くはなかった。現代は、大衆が本当にカッコいいものを強く望む時代にいる。新鮮で、新しく、革新的なものを。深い意味があり、真心のこもった、感動できるものを。みんな、ジャンプだけではもう満足しないんだ!洗練されていて、いいものでなくてはいけない。だから良い振付家がたくさんいるから「買い漁る」トレンドも理解できる、と言う一方で、連絡を取り合い、一緒に成長できる人物を見つけることで得られるものがある、ということも僕は言いたい。時間をかけて、スケーターから最高のものを引き出すにはどうするかを学ぶんだ。初対面、一年目でそれをするには難しい。ラッキーな時もある:適切な音楽を選んで、彼らと仕事をして――すると、ジャーン!素晴らしい!だけどそれは難しい。少し旅をするくらいがいいんだよ」

-昌磨の状況はこの点で興味深いです。樋口美穂子コーチと長期間の協力関係がありましたから。それに彼自身のスタイルも既に身につけていました。あなたが彼の持つスタイルにぴったりハマったのかどうか疑問だったんです。彼の中にある何かを変えたのか、加えたのか――あるいは全くゼロから始めたのか。

DW「僕は、そういった言葉では考えてないよ。僕にとっては、変えることではなく、理解することなんだ。僕はスケーター達を変えようとはしない。彼らがどんな人物で、二人で何ができるかを見つけ出そうとしているよ。一人の人間としての自己発見が全てなんだ。画家になるとか作曲家になるのとは違う。音楽を作る時、向き合っているのは静寂、自分自身の思考だけであり、自分自身の心だけだ。
 僕が向き合っているのは人間――そして音楽。イエス、僕は音楽から自分のインスピレーションを得ているけど、それは僕が向き合っている人(スケーター)に届いた時だけ有効なんだ。なぜならその人がその音楽で演技するからね。
 だから、その音楽がスケーターの心を動かしたり、スケーターがその音楽を感じ取って、そこから何かを作り出さない限りは、僕のアイデアなんてものは役に立たないんだ」

-では、先程の質問に戻りましょう。昌磨との3つのプログラムをどのように評価しますか?彼の魂、人柄を何とか見つけ出せたのでしょうか。それともまだ継続中でしょうか。

DW「いつだってまだ継続中だよ!僕たちが3年間一緒にやってきたということが間違いなく表れていると思う。昌磨の「Dancing on my own」の演技は、僕が考えるに、この年のシーズンだけではない、それ以上に彼を代表するプログラムだ。以前に2曲のプログラムでコラボしたという事実が示している。もしこれがコラボ初の曲だったとしたら、彼がここまでのものを生み出したプログラムになっていなかったと思う」

-3つの曲を比較してみると、その中に共通の振付が見られます。優雅でバレエのような腕の使い方、北米的なスケーティングスタイルを思わせるスケーティングの軽やかさといったより全体的なものもあれば、それだけではなく、様々なステップやターンの間に繋ぎとして入れられている一瞬のスプレッドイーグルや、特徴的な首の回し方、その他ジェスチャーや体の動きといった細かい部分などです。

«Time after time»

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«This town»

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«Dancing on my own»

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DW「ジャンプ以外で言うと、どのスケーターもやっていて気持ちのいい、得意な動きがある。振付家はそれらの動きをどう使うかを探すものなんだ。僕が人の家にお邪魔して、その家にある家具を見渡して、それらだけでどう新しく模様替えし直すか――より良くするかを僕に尋ねるようなものだね。これぞまさに振付家がしていることだよ。
 イエス、新品の枕や椅子を持ってくることも考えるし、新しい絵画を飾ったり、壁の色を変えたりもする。だけど全部の家具を捨てることはしない。その人が持っているもので一緒に作業をするんだ。
 これらのスケーター達は既にトップに立っていて、既にピークに近づいていて、トップ10もしくはトップ5に位置している。もう十分実力がある。たくさんの素敵な家具を持っているし、壁には美しい絵画が飾られている。それらを投げ捨てるなんて愚かだよね。だからこそ、類似点が見えるんだ。スケーターが別の振付家とタッグを組んでも、それでもまだこういった類似点が現れる――昌磨は昌磨だから。彼が自分を象徴するスタイルを持っているからだよ」

-なおかつ、彼のスタイルはちょっと変化したと思います!

DW「ありがとう!それが僕の望みだよ。僕が振付をする時、プログラムはまるでパズルみたいなんだ。絵柄はすぐに出てこないかもしれなくても、ただスケーターがあっちの端からこっちの端までただ滑るだけのための空白を残すことはしない。全てを8拍子ないし6拍子、あるいは音楽のフレーズに乗せるんだ。ジャンプもスピンも含めて、パズルのように全てがぴったりハマるようにデザインされている。
 僕のような振付家と組んだことがないスケーターの中には、ここに手こずる人もいる――変えていくのが好きだとしたら、彼らは束縛されていると感じるかもしれないね。昌磨は理解できた主な要因の一つが、僕が考えるに、僕たち二人がもともとエキシビションナンバーを二曲作っていたからということなんだ。競技用プログラムに至るまでに、昌磨は僕の脳みそがどう機能しているかを知っていたんだ。昌磨は、そういった僕とのプロセスの間中、全力を注いでいたよ。

 そしてもちろん、僕はスケーターに気持ちよく滑ってほしい。だけど音楽のフレーズをあちこちで変えることから初めては駄目だ、なんの意味もないからね。
 僕にとって、振付というものはアクセント、あるいはハイライトだけじゃなく――織物を編むような感じだね。僕たちが追いかけているのは音楽の満ち引き、区切り、感情の変化、音調の遷移――僕たちは音楽を追いかけてるんだよ!」

2.Dancing on my own:歌詞

【2019年全日本選手権でのDancing on my own】

ー音楽と文章について、この「Dancing on my own」に移りましょう。昌磨の最近のインタビューで、あなたが二曲送って、彼がそのうち一曲を選んだと言ってました。今、あなたが提案したもう一曲は何だったのか公開することは可能でしょうか?もしくはせめて2019-2020シーズンに昌磨と切り開きたかった別の方向性だけでも。Dancing on my ownとは全く違うものだったのでしょうか、それとも表現や音調はどちらかと言うと近いものだったのでしょうか。

DW「もう一つの方は、僕が深夜のトーク番組で見た歌手の曲なんだ。彼はある種アンダーグラウンドアーティストで、正真正銘のスター的ユーチューバーで、大手のレコーディング契約を結ぼうとしているところだった。日本人とオーストラリア人のハーフで、名前はJoJi。曲は「Dancing in the dark」と言うんだ。

 「Dancing on my own」とは曲のテーマが似ているけど、Vibe(感情、雰囲気)が全く異なる。完全に違っているね。よりブルースっぽくて、だけどテクノ音楽なんだ。
 不思議な話で最近ヴィンセント・ジョウがエキシでこの「Dancing in the dark」を滑っているのを見たよ。全く気づかなかった。

 僕はこの二曲を選んで、別々のアーティストにアレンジを依頼したんだ。最初の曲(「Dancing in the dark」)はOrin Isaacsが手掛けてくれた。トロントを拠点にしているアーティスト、作曲家、音楽監督で、多くのカナダのテレビ制作会社で活動している。
 Sandra Bezicを通じて彼のことを知ったんだ。この曲の音楽ジャンルは彼の得意分野だったから、彼に曲を送ってフリープログラムにするためにどうするかを話し合ったよ。だけど最終的に、昌磨は別の曲を選んだんだ」

-ということは、あなたが昌磨に送ったのはアレンジしたもので、原曲そのものではなかったんですね?

DW「その通り。両方ともフリープログラムの曲を作ったんだ。ボーカル部分を囲むように音楽を追加したよ。オリジナルの曲以上のものになった。
だけど、「Dancing in the dark」 の振付は作らなかった。(昌磨が選ばなかったから)未完成のままなんだ。「Dancing on my own」はと言うと、僕はヒットしたダンスナンバーとして知っていたんだ。若い時に踊りに行ってて、何年も前からRobynが大好きだったからね。
 Robynは多分10年くらい、音楽シーンから離れていたけど、この曲でカムバックしたんだ。彼女の最近のヒット作だよ。それから数年して、もっとバラード調で歌う男性ボーカルバージョンをたまたま耳にして、僕はすぐに昌磨のことを思い浮かべたよ――自分の人生を通過しようとしている、その時の昌磨そのものだったから。
 最初はエキシ用にできるかもと考えたんだ。というのも、シニア男子のフリープログラムの力強さに足るような十分なパワー、多様性が音楽の中になかったからね。

 だけどここモントリオールに、スケートとの仕事に経験豊富な偉大な作曲家がいたんだ――アイスダンスコミュニティで非常に多くの仕事をしていて――ボーカル入りの曲があれば、彼がそれに合わせて曲を作ってくれる。イントロも、転調も作曲できる。枠組みを作ってくれるし、メロディから離れてオーケストラのような場所に連れて行ってくれて、それからまた流れるように歌の部分へ戻される手法に長けている。
 彼の名前はKarl Hugo。僕たちが必要としていたものを作曲してくれたんだ。イントロ、転調、更に曲にかぶせるパーカッションも新たに加えてくれた」

【Karl Hugo氏のYour last kiss-昌磨のプログラムのために新しく作られた二曲】

-ある意味で私の次の質問に既に答えてくださったのですが、更にそこから付け加えたり、おっしゃった事を発展させられるかもしれません。
多くの人々が、Dancing on my ownは昌磨のコーチ関係の状況と深く共鳴していて、それがこのプログラムを他に類を見ないほどパーソナルなものにしていることに触れています。
 歌詞に登場する人物のストーリーと彼がもがく姿、所属していたチームから離れてフィギュアスケートでの場所を見つけようとする昌磨が交わり、融合していると。
 この曲の歌詞に出てくる主人公の仮面の下には、昌磨自身がいて、闘っているのだと我々は容易に思えるのです。
 非常に明らかに見えるこの類似点は、あなたが初めてプログラム振付のために訪日した8月の時期に、どの程度まで考えていましたか?昌磨の不確かなコーチ関係の状況が、プログラム作成の上であなたの考えをどの程度形作ったのでしょうか。

DW「昌磨のプライベートな人生について僕が知っていることを暴露しすぎずに言うなら、昌磨のコーチ関係よりも更に深いものとだけ言えるよ。ずっと、ずっと奥深いんだ。人生の岐路に立つ若い男性のストーリー。コーチに関する難局だけではなく――みんなで言うところの家庭問題であり、仕事の局面なんだ。自分の二本の足で立つ(自立する)ということ――何をおいても、coming-of-age(成人を迎える、成長する、一人前になる)の物語だよ。
 昨年は特に、昌磨の人生にたくさんの出来事が起こったね。彼はコーチがいなかったんだよ!昌磨にコーチがついていなかっただけじゃなくて――まだ新しいコーチを決めてさえいなかった!コーチのいないスポーツ選手と一緒に組むのは、今までになかったことだよ。

 昌磨が彼自身に強さを与える曲に繋がる事ができたらいいなと僕は願っていたんだ。歌の中に自分自身を見つけられるように。多少なりとも自伝的な曲で滑る場合、励みになるようにするべきだね。そうでないと辛すぎるから。世界を前にして自分の心をさらけ出し、無防備な姿でいるのはとても難しいことなんだ。
 だけどそこに上向きになれるような要素があれば、自分の持つ強さを見つけることができるし、それをする理由も見つけられるんだよ。

 パンデミックが起こったのは残念だった。そう、昌磨にとって非常に困難なシーズンだったね。精神的な不安がたくさんあったし、不確かな事も多くて、スタートも遅かった。昌磨は急いで自分自身の準備を整えようとしていたけど、(シーズン後半、チャレンジカップ後には)世界選手権へ向けて準備していたように感じたよ。実際に何人かを驚かせたかもしれないね。だけど(世界選手権は)起こらなかった。もし世界選手権があったら何が起きていたかは、もう知ることはできないんだ」

-このプログラムは、シーズンを通じて驚くほど様々な演技がありましたね。グルノーブルでは彼のスケート人生の中でおそらく最低の得点でした。ですが、昌磨はそのシーズンのうちにカムバックを果たしました。全日本選手権では良い演技をしましたし、そしてハーグでは輝かんばかりの演技でした。
 シーズンが進むにつれて、最初は自分自身で認め、受け入れていた孤独が、次は新たに見つけた自分自身でいることの幸せへと変化したのを我々は見てきました。自分の目標、アイデンティティ、それにもっとたくさんのものを取り戻した幸せですね。そこに笑顔と、良い結果がついてきました。

DW「サンディエコ地区でスケートを教えている僕の友人が、教え子の一人とハーグの会場で見ていたんだ。昌磨が滑った直後にアリーナから僕に電話してきたのを覚えているよ。「オーマイガー、彼はとても素晴らしかったわ、世界選手権で彼が勝つでしょう、驚くほどすごかったのよ!」って感じだったね」

-グルノーブルでの壮絶な滑りが音楽、歌詞の中にある悲痛、慟哭を際立たせている一方で、ハーグでは昌磨が新たに見つけた幸せと歌の主題である”悲しみ”が多義的に同居していますね。どちらの場合も、演技として「筋」が通っています――もちろん、それぞれ全く違った「筋」ですが。

【グルノーブルでの宇野昌磨(上画像:@yawning_shoma、全日本選手権での宇野昌磨(下画像:Olympic channel)】

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DW「繊細な曲で滑る時、実はリスクを負っているというのは面白いよね。「グラディエーター」のような力強いチャンピオンの曲よりもリスクが高いんだよ。力強いチャンピオンの音楽は簡単なんだ。感情を結びつかせる必要がなくて、ただ良い演技をするだけだ。無防備で、繊細で感受性豊かな曲で滑るのはいちかばちかの勝負になる。だけど上手に滑れたら、その見返りは桁違いだ!いつだって莫大な結果だよ。だけどリスクでもある。自分の心をむき出しにするのは常にリスクを負っているんだ」

3.Dancing on my own:音

【Dancing on my own 2020年チャレンジカップ(ハーグ)】

-音楽に関してなのですが、あなたがKarl Hugo氏に曲のアレンジを依頼する前に、昌磨の技術的な内容と構成を既に頭の中で考えていたのか気になっています。このサウンドトラックの作業中、この場所にこういう感じの曲を配置してほしいと彼に依頼したのでしょうか。それとも、作曲家に主導権を渡して、ぴったり合うものは何でもいいから作ってもらったのでしょうか?

DW「完全にその通り!シニアレベルの、特に男子選手では、最初の3つの要素は「4回転、4回転、トリプルアクセル」か、もしくは「4回転、4回転、4回転」だよね。どうやって選手に4回転を跳んで、音楽のことも考えて、感情も込めて、それから他にも……ってやらせるんだい?あの忌々しい4回転を降りる以外に何がある?人々が理解すべきことは、スケート選手が人間にできる範囲ギリギリのところへ自分たちを追い込んでいるという時代に、我々は生きているということなんだ。僕は軽い気持ちでそう言ってるんじゃないんだよ。昌磨、結弦、ネイサン、彼らはみんな一つの演技の中でいくつもの4回転を跳ぶ。(4回転を)2回、3回、4回、5回――4分以内に1マイル(1609m)を走ったり、あるいは記録タイムより短い時間で30メートル走をするようなものだよ。何度も、何度も、何度もね。
 意義深く、華麗で、複雑で繊細であるべきというものの中にこれらの全ての要素が詰まっているんだよ。僕たち振付家としての使命は、彼らがまず物理の法則に逆らい、人間の限界を超えようとするところに、芸術の幻想を作り出すことなんだ。

 トリプルサルコウ、トリプルトーループ、トリプルループを跳んでオリンピックで優勝したジョン・カリーの頃とは違う。彼は美しく滑る余裕があった※1。練習では全ての3回転を跳べていたのは間違いない。僕の元コーチであるペトラ・ブルカは、試合で完璧なトリプルサルコウを跳んだ最初の女性だと認定されている。彼女は歴史の本にも載っているよ。試合では、あまりやろうとさえしなかった。一度だけ跳んだけど、オリンピックでは跳ばなかった。1965年の世界選手権で優勝した時にも跳んでなかったと思う。彼女はとても高く跳ぶ選手で、足にバネが付いてたし、他のどの女子選手よりも強かったんだ。彼女が僕に何て言ったと思う?練習で全部の3回転を跳んだと教えてくれたんだ!3回転ルッツさえも――1960年代に!だけど当時のスケートは今と違っていたからね。ジャンプが全てじゃなかったから、自分を限界まで追い込まなかったんだ。今の時代の挑戦とは、音楽が表現されていて、(高難度のジャンプなどの)技術的要素が成功して、それらが調和し、満足できるところに作品を作り出すことだね。

彼は美しく滑る余裕があった※1 著者による補足
技術要素のプレッシャーを少なくする(4回転、もしくは3回転も全て跳ばない)ことで、芸術性に焦点を当てて美しく滑る事ができたという意味。(現代のスケーター達はその余裕を持つことができない。彼らは技術の限界に挑まなければならないため。)

 ボーカル入りの曲について言うと、求められるものは増えてくる。歌われている歌詞、伝えられている文章、そして文字通り語られている物語があると、振付の必要条件はより重要になってくるんだ。音符の高低、穏やかな瞬間から続くダイナミックな瞬間だけではなく――言葉、意味、思い、イメージ、情景。これらは想像に任せておくのではない――言葉だからね、僕たちは何を言っているかが分かるんだから!だから僕が競技用プログラムにボーカル入りの曲を使う時はいつも、音楽だけのイントロ部分が必要なんだ。最初にちょっと振付を入れて、それから行くぞ、滑って、4回転!曲にシンプルな転調があって――肉体的に負荷がかかるほどではないけど――行け、ブーン、4回転!同じことをもう一度:シンプルな転調――体に負担はそれほどないけど、ちょっとより音楽っぽく――行くぞ、ブーン、4回転(それかトリプルアクセル)!それから僕はようやくボーカル部分を入れられるんだ。その言葉の意味を表現する振付ができる部分に、僕は少なくとも10秒を入れるからね」

-冒頭に出来ることは、まずは音楽のフレーズを表現するということでしょうか?

【フレーズ冒頭の最初のジャンプ(4回転サルコウ)】

【別のフレーズ最後の4回転トウループ】

【フレーズ最後に跳んだ3A-1Eu-3F(プログラム後半部分)】

DW「その通り!スケーター達がまだちょっと若い時に、一緒に仕事を始めるのがいいと思う理由があるんだ。外国からアスリートが来て、コーチも知らないし、アスリートがどう指導されたかの過程も分からない時――振付家としての賭けに出ることになる。本当にそうなんだよ。スケーター達には、耳を鍛えるよう説得するんだ。音楽のフレーズを追う時、クロスカットする時も、スリーターンする時も、ターンも含めてジャンプを跳ぶまでの小さなニュアンス、準備、ジャンプのリーチとピーク、みんな全て音楽的だから役に立つよ、と。音楽がスケーターを高揚させてくれる。プレッシャーの中で技術を磨くための努力を、もっと楽にさせてくれるんだ」

-プログラム中のスケーターの集中力にも左右されるのでしょうか?

DW「いいや。決心次第だ※2。それが唯一の要因だよ」

決心次第だ※2 著者による補足
決心、あるいは与えられた振付の通りに、要素を行おうという意思のこと。ここでは集中力ではなく、あくまでジャンプを跳ぶタイミング、与えられた振付を全て正確に滑ることにこだわっている。

-また、グルノーブルでの演技では、ジャンプが外れていただけでなく、タイミングもひどく外れていることに気づきました――最初に転倒する前からです。

DW「おそらく彼は焦っていて、音楽より先行してしまったんだろう。不安が音楽より早く動いてしまう原因になるし、またそれがミスを引き起こしてしまう。4回転や、難しいテクニカルエレメンツを成功させる一番大事な要素はタイミングなんだ。ジャンプのタイミングは極めて重要なんだ――ジャンプする力や努力、その他の何よりもね。長年にわたって、僕がコーチとして教えようとしてきた事から最大の利益を受けたスケーターは、それ(ジャンプのタイミングに)に全力を傾けた人だった。

 一番努力していたのは誰か知りたいかい?キム・ヨナだよ!彼女自身が非常に音楽的な人物なんだ。彼女は歌うことが好きで、歌声も素敵だし、音楽が大好きだ。僕が彼女に伝えたこと全てを――彼女は信じてくれた。音楽に乗ることは彼女にとって簡単なことだったし、欠くべからざるものだった。もし音楽から外れたら、転倒していただろうね。音楽から外れる事なんてできなかった。キム・ヨナの演技を見てみて、音楽に乗っていない瞬間を探すのは大変な課題だろうね。それに彼女はスケートの歴史の中で、最も堅実な競技者の一人だったよ。

 他のスケート選手にそれを信じさせようとしても簡単じゃないんだ。スケートはちょっと考えが甘いところがある。彼らは技術は技術、芸術性は芸術性だと考えているけど、真実はそうじゃない。技術と芸術性の調和であるべきなんだ!バレエレッスンやダンスレッスンを受けると、教師は芸術性と技術の両方を同列に扱う。技術の中に芸術性があり、芸術性の中に技術がある」

-ハーグのチャレンジカップでの昌磨のスケートは、技術的にも芸術的にも、両方で非常に正確でした!グルノーブルのフランス杯と比べてみると、タイミングがまさにピッタリですね。そこで次の質問が浮かんだのですが、昌磨、ステファンとともにプログラムをブラッシュアップするため、1月に(オーストリアの)テルフスへ行かれていましたね。このプログラムでのコラボレーション第2弾について、更にお話を聞かせていただけませんか?現地で何をしたのかの詳細や、どのような計画だったのかを。

【宇野昌磨、Stéphane Lambiel、David Wilson、オーストリアのテルフスにて 2020年1月】(ソース

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DW「素晴らしいものだったよ!キム・ヨナのアイスショーを通じて、ステファンとは長年の知り合いなんだ。どのアイスショーにもステファンを入れるんだ、だってステファン・ランビエール無しではアイスショーができないからね。ステファン個人に振付をするチャンスは無かったんだ、二人で何度もそういう話はしていたけどね――その機会は与えられなかったよ。世界中の人間の中でも昌磨がステファンをコーチに選んだと知った時、僕はすごく嬉しかったしワクワクしたね。驚くほど丁寧にステファンが僕に連絡をしてきたんだ、僕と昌磨のために来てほしいと。彼の教え子の何人かと一緒に仕事をすることについても話していたんだ――それも全部、新年の将来の計画だったんだよ。

 僕は1月にテルフスへ行って、昌磨、ステファンと一緒に、プログラムをより良く、よりやりやすくできる所はないか、何か問題は無いかを探したよ。こういうのは、キム・ヨナがトロントにいた4年間の中でも素敵なことの一つなんだ。試合が終わるたびにブライアン(・オーサー)が僕のところに来てこう言うんだ、”OK、あれがこうだった、これがああだった”って。そしてヨナが、”あれを変えたいの、これを微調整したいの、もっと出来ると自分では思うわ、もっと探しましょう”と言う。振付家として、コーチとアスリートとともに、内輪の集まりで、こういう時間を持てる事、作品の質を高める機会を与えられる事は非常に恵まれている事なんだよ。僕は好きなんだ――コーチ“と”スケーター、3人一緒に協力する事が。すごく好きなんだよ!最高のコーチというものは、それを可能にする人だと僕は考えている。最高のコーチは振付家がプログラムに何を込めたのかを理解するため、考えを共有するために、振付家、スケーターとともに時間をかけたいと望んでいる。振付家として、我々はそれに対してオープンでいなくてはならないと思うよ。

 そこで過ごした週は本当に楽しかった。何をやったかは思い出せないけど、その週の終わりにはプログラムがより良いいものになったと感じたよ」

-とても良くなっていましたよ!(そのブラッシュアップを経て)昌磨はハーグで滑りましたが、プログラムの中に目に見える変化がいっぱいありました。たくさんの細かい変化が……

DW「観客の目にハッキリと分かる小さな変化であったり、スケーター本人がより滑りやすくなった小さな変化であったり――nitty-gritty(物事の本質、核心、基本的事実)で、小さくて細かい変化という事なんだ。シーズンの中で進歩しながら世界選手権での演技に近づくにつれて、より物事の本質に迫るようになる。僕がとてもイラッとすることの一つが、アフターフォローを歓迎しないアスリートだよ。僕はいつも彼らに言ってるんだ、電話して!って。僕を呼んでくれ、もっとやりやすく、もっと良いものにしようって。振付家はその後のフォローの過程にいる必要がある。プログラムを忘れられないようなものにしたいなら、絶対に必要不可欠なことだから」

ー面白いことに、あなたがオーストリアに来る前の段階で、昌磨のフリープログラムに、形になろうとし始めた小さな変化がいくつかありました。あなたが(テルフスへ)来る前に起きたよく分かる変化は、クリムキンイーグルでの動きです。最初の3つの試合(ジャパン・オープン、フィンランディア杯、フランス杯)では、昌磨は通常のやり方でクリムキンイーグルをしていました。一方、4つ目の試合(ロステレコム杯)では、重要な音のアクセントを強調するように、手の動きを入れています。
この変化はあなたのアイデアなのか、それともステファンか、もしかしたら昌磨のものか、考えていたんです。

DW「覚えてないけど、多分ステファンがしたんじゃないかなと思う。それか多分昌磨だったかも。自分をごまかすのはやめて現実を直視しよう。ステファンは彼自身が華のある才能豊かな振付家だ。コーチという役目を選び、自分の学校を設立したのは素晴らしいことだよ。子供達に指導する、ステファンのような人物がこの世界にいてくれて、僕たちはとても幸運だ。僕は大真面目に言ってるよ!未来の世代を教育するステファンのような人物がいることは、すごく恵まれている。極上のスケートというものを体現し、スケーティングや熟練した技能において最高級の見本である彼のような人々がいる。ステファンが振付をするのは素晴らしい。だけど、それよりも更に素晴らしいのは、彼が教えるということ。自分の経験、知識、スキルを世界に返し、分かち合ってくれる彼のような人がいることは、僕に未来への希望を与えてくれるんだ。

 昌磨、ステファンの新しい関係の一部になれて、すごく興奮したよ。だって、ステファンは与えられるものをたくさん持っているからね――彼に僕は必要ないんだよ!ステファンは全てを持っている。スケーターに求めるもの全てを、彼は持っているからね。ジャンプ、スピン、何より芸術性……そしてスケーティングの質が信じられないほどの技術だよ!世代を代表する一人だ。彼は忘れられることはないだろう。だから、彼が僕を(協力関係に)加えて、依頼したいと思ってくれたことに、心から嬉しく思ったよ」

終章:宇野昌磨と過去

-あなたと昌磨のコラボレーションについての最後の3つの質問で、このインタビューを締めくくりたいと思います。まず最初の一つから。あなたの作品が昌磨の多彩な能力を大いに向上させ、更に開花させました――少なくとも、これまでに到達したことが無かったレベルにまで強調させました――彼のスケーターとしてのpersonaにある、よりソフトで叙情的な面を。あなたの見解では、昌磨を探求する道筋は他にもあるのでしょうか?あるいは少なくとも彼と一緒に探したいと思う方向性とは?もしこのスケーターと一緒に組む新たなチャンスを与えられたら?何か違うことをしたいと思いますか?あるいは既に振り付けたプログラムを更に超えた方向に行くのでしょうか?昌磨には我々が知らない側面がまだあると思いますか?私達からは見えていない、隠された可能性のようなものが。

DW「他のスケート選手と長い期間組んでいる時、僕は絶えず新しい方向性を探していたよ――以前やったことのないものはあるか?つなぎ合わせられるものは他にないか?一体になれるものはあるだろうか?昌磨に関して言えば、なんて言ったらいいか分からないな、まだ始まったばかりだから。僕たちはまだ昌磨の深い所まで触れていない。昌磨も表面をちょっと引っ掻いたくらいだと思う。彼は自立したばかりだし、あるいは本来の自分になろうとしているところなんだ。僕が言えることは、僕がまだ一緒に関わることができるなら、二人で過去にやったこととは全く別の方向性を探したい。だけど彼が一体になれるようなもの、彼が心を動かされるようなもので。これは一番重要なことなんだ――スケーターには、表現できる音楽を感じ取る事が必要だから」

ー昌磨と彼のコーチとのコラボレーションの中で、あなたがぜひ教えたいと思う一番面白かった、あるいは感動した体験などありますか? 

DW「最初、まだステファンが関わるようになる前、昌磨にコーチがいなくて自分だけで練習している時、昌磨とエージェントのオオハマコウジしかいなくて、僕はオオハマ氏とずっとやり取りしていたんだ。昌磨に振付をしに行って(僕が帰ってしまった)後は、僕が彼に渡した振付しかない状態で一人ぼっちになってしまうと心配で、FaceTimeでのアフターフォローをやろうと頑として譲らなかった。僕がカナダに戻ってからも、せっついって、せっついて、せっつきまくったよ!”昌磨が何やってるのか見たい!とにかく昌磨とリンクに行ってFaceTimeで彼と直接話しをしよう!”って。

 僕の働きが彼にとって十分なものだったか確かめたかったんだ。人々は理解していないけど、このアフターフォローの過程はスケート選手だけのものではなく、振付家自身のためでもある。スケート選手の事を知らない場合、一週間しか無い中で振付を作るのは本当に難しい。もし知っていたとしても、うまく行くかは分からない。自分の働きがスケーターにとって価値あるものにするために、このアフターフォローの時間が必要なんだ。

 それで、コウジが実際にやってくれて、4~5回FaceTime上でセッションしたよ。こっちは夜で日本は朝。何がどうなってるのか分かりづらかった。コウジが撮影するけどよく見えなかったりとかね。だけど二人の忍耐に感謝している。振付家として、彼らが僕のためにやってくれていると感じられて光栄に感じたよ。というのも、昌磨が滑って、審査員が彼を審査する――だけど審査員は僕も審査するんだ!ファンも昌磨を審査する、だけどファンは彼の事が大好きだから――僕を審査するんだ!連盟も昌磨を審査するし――僕も審査している!FaceTime越しであっても、可能な限り良いものを作ろうとするチャンスを僕にくれるために、二人が時間を割いてくれたことが本当に嬉しかったよ。
 これは面白い事とは言えないけど、でも……(感動した体験なんだ)」

-最後の質問です。昌磨のスケートで最も印象的なものは?彼を実に特別な存在たらしめている、際立った特質、秀でた個性や技などありますか?

DW「それは簡単な質問だ!日本人スケーターの血筋というものがあるんだ……

 少しの間、過去に戻ろう。フィギュアスケートには、非常に”白い”特権階級的なスポーツの時代があった。ほぼヨーロッパ、北アメリカのスケート選手によって支配されていたんだ。数十年にわたって、世界の舞台に自分たちの居場所を作るべく、多くの国々が立ち上がった。日本は、独自のスケートの遺産を育ててきた。そのスケートの遺産は何年もの間、今日のような強大な力となるまでに、世界的称賛の水面下で姿を潜めていた※3

世界的称賛の水面下で姿を潜めていた※3 著者による補足
日本のフィギュアスケートは、これまではあまり一般大衆の目を引かなかった。しかし世間の注目の水面下ではたくさんことが起こっていた。多くの興味深いスケート選手、多くの発展が、日本のフィギュアスケートを押し上げて、今日のような強大な力になったという意。

 男子で言えば、思い浮かぶ名前がいくつかある。1970年代後半の五十嵐文男は素晴らしい選手で、様々な意味でその時代の先を行っていたよ。1990年代中期の重松直樹は優美なラインと、質が高いエッジを持つ美しいスケーターだった。もちろん他にもいるし、更に近年になるとスケーターの一覧表はかなり長くなって、新たな高みへとレベルを上げた髙橋大輔、羽生結弦、宇野昌磨で締めくくられている。

 スケートには日本的スタイルというものが間違いなくあって、エフォートレスな流れとスピード、柔軟な膝、深いエッジ、爆発するような、しかし切れ目のない自然なジャンプ技術がそうだ。日本人の生活の中にある武術と哲学の歴史がそこにあるんだと分かる――彼らのスケーティングに、それが見えるんだよ。

 昌磨のスケートは、これら素晴らしいheritage(伝統、遺産、品性)の象徴なんだ


 翻訳は以上となります。
 宇野昌磨選手及び日本のフィギュアスケートの歴史について多くの発見がある素晴らしいインタビューの日本語への翻訳を快く許可し、内容をチェックしてくださった原著者のMikhail Lopatin氏に感謝いたします。
 英文から日本語に正確に訳するための質問にも詳細に、丁寧に教えて頂きました。それらの中で、特にDavid Wilson氏の言葉や、フィギュアスケートについてより深く理解できると思ったものを、"著者による補足"として日本語に翻訳し、追記しております。
 また、David Wilson氏と、日本語訳を査読していただいた協力者の方にも感謝申し上げます。

I would like to thank the original author Mr. Mikhail Lopatin for kindly allowing me to translate the wonderful interview with many discoveries about  Shoma Uno and the history of Japanese figure skating into Japanese and checking the content.
Also Mr. Lopatin taught me in detail and politely for the question for accurately translating from English to Japanese. Some of his explanation are so clear and easier to understand about what Mr. Wilson said and Figure skating, I translated some of them into Japanese and  appended as a supplement to the document.
I also would like to thank Mr. David Wilson and his collaborator for peer-reviewing the Japanese translation. 

I am so honored to get a chance to translate this wonderful interview into Japanese, and share it with a lot of Shoma fan in Japan!

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