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この世界の混沌を愛す

さっき、ファミリーコンステレーションへの愛を書いていて、「ああ、私はこの世界を愛しているんだな」と改めて思った。

そういえば、ずいぶん前につけたこのブログのタイトルも「この世界と恋に落ちる」だった。今は、「恋に落ちる」段階から、「愛している」段階に変わったのかもしれない。


私のこれまでの人生は、原家族の問題・負の連鎖が重くのしかかっていた。
周りがどう見ていたかはわからないが、学校時代も会社員時代も、独立してからも、子どもを持ってからも、やっぱり根っこには「生きづらさ」がずっとあるし、人生の途中で誤魔化しようがなく身体にも影響が出たので、本気で向き合ってきた。


こんな設定の人生を恨んで、人生やめたいなと何度か思ったこともあるし、まだその昔の自分に飲まれて恨みたくなるときもたまーにある。


でも同時に、昔からいつだって、もっと大きな目で俯瞰して、「これはネタだ。このネタはいつか使える」と思っている自分もいるのだ。

もう少し詳しく言うと、かつては、「いつか書いてやる」という、本を書くことへの創作意欲を原動力としてなんとか生き延びていた。生きているつらさを創作へのエネルギー源として捉えていないと、多分生きていられなかった。

今はそういう具体的に「書くための経験なんだ」と思うよりは、「あー、この人生ではこういう世界もあるって味わいたいんだなぁ」と、目線が、より地球外からのもの、スパンも大きくなってて、結局、この地球に生まれて、悲喜こもごも、愛憎半ばしたり、七転八倒しながら生きるというところから、そうでない生き方へと変わっていくドラマを味わいたいから生まれて生きているんだなと思う。


それでも、目の前で「あーーーーーーあ」ということも起きるし、日々子育てをする中で、家族や家系からくる(あるいは繋がっていないことからくる)連鎖を目の当たりにせざるをえず、「おえっ」てなったり「きーーーーーっ」ってなったりして、何もかも投げ出したくなることもある。世界中の私以外みんな幸せそうに見えることもたまにはある。

でも、そうなるときもあるし、大きな意識で楽しめたり眺められるときもあるし、まあなんか今はそんなんでええんじゃないか、と思ったりしている。そしてそれを行ったり来たりしながら、少しずつ何かが変わっていっているのだろうし、それは必ずしも「良い」方に行くという、小さな頭が勝手にジャッジした方向性ではなくてもいいのだと思う。そしてこれは、「いい悪い」で判断せず、混沌そのものをもまるっと肯定する、とても日本的?非西欧的な感覚なのかもしれない。

ゼロか100か、いい悪い、じゃなく、そんな時もあるわな、とOKを出せるようになってきたこと自体に、ようやく大人になってきた感を感じるし、そういう緩さと、生きることやこの世界の混沌ぶりそのものを、愛せるようになってきているのだろう。




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