やすりで削られるこころ

やっぱりあたしのこころは簡単に擦り切れてしまう。感情の浮き沈みが、最高に激しい。

繊細でいることが、最高だと思いたい、と思えば思うほど、どんどん繊細でいることが辛くなってゆく。日々の小さなできごとが、ガラスの破片になって、あたしのこころに刺さる。そして時には、誰かがあたしのこころを奪って、あたしの目の前で、やすりを使って削っていく。やすりにこころを擦り付けていく。もっとヒリヒリ痛む。その繰り返し。でもその痛みから解放されるときがある。それはだいたい深夜で、例えば午前3時前とかで、なにかを感じる能力が麻痺したような感覚になって、こころがスッと軽くなる。この時がいちばん、楽でいられる。

あたしのこころが死んでしまったら、あたし自身だって死んでしまう。あたしのこころはあたし、そのものだからだ。本当にあたしがなりたいこころは、落ちている全てのものを拾い上げないで、いらないと思った情報ははじき返せるくらい耐久性があって、元気の印に、水分をたっぷり含んでぷるぷるの状態でいなくちゃダメなんだ、カラカラに乾燥していたら、凶器のように鋭く尖って、誰かのこころを簡単に切り裂いてしまう。

相手の気持ちが推し量れずに、不安な気持ちになってしまうなら、自分が少しでも我慢する方がホッとする。だから、自分が少し我慢して、相手に希望通りの選択肢を選ばせる。相手を機嫌が悪くなるなる方から少しでも遠ざけたい。常に。自分の気持ちは自分でコントロールしようと思えばできるけど、相手は常になにを考えているかわからないし、どんなことが怒りのスイッチを入れるかは、完全にはわからない。だから相手には、機嫌のいい雰囲気に常駐していてほしいと願っている。

こういうことを考えずに日々を過ごしている人がいるということが、もはや信じられない世界線に自分が生きている、ということに気づくのが遅すぎて、自分でも驚いている。こういうことをみんながやっていると思っていた。でもどうやらそうではないみたいだと、ようやく最近気がついた。何にも考えずに話したり、行動できたりすることは羨ましいし、あたしもそうでありたいと思う。けれど、どう考えてもそんな風にはなれないことは自分でもよくわかっていた。世界中のすべてが意味不明になったとしても、このあたしがあたしであることは、変えることができない。

何にも感じない、という男の子が何かを感じたくて、フライヤー ( 揚げ物を揚げる機械 ) に手を入れて、大火傷したというシーンを海外ドラマで見て、泣いた。何かを感じたい、と思ったなんて、最高に切ない。何かを感じたい、と思わなくても感じてしまうあたしの感度を分けてあげたい。

生きているだけで十分苦しい。なぜなら、頑張ろうとしなくても、常に頑張ってしまうから。





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