【教育の理想と現実】
教育は、美しい言葉で理想が語られています。数年前、カンボジアで娘の学校探しをしていた時のこと。色々な学校で話を聞いたのですが、どこも同じことを言っているように聞こえました。教育の理想です。だけども、その言葉はどこか弱々しさもありました。美しい言葉を前にして、弱々しいとはどういったことでしょう。
この前、ある課題解決型学習のプログラムに娘が参加しました。他の子供たちもたくさんいます。私はここでインストラクターがどのように場を運ぶのかを見ていました。課題のものを作りながら、こどもが自ら方法を探り完成させていくというもの。問題があれば何が問題なのかも含めてこどもは探すはずです。
あるこどもが、うまく行かないと私に言ってきました。私はひと目見て、部品がズレていることがわかりました。私は手を出さずもう一度やったことを確認するようにと言ったのですけども、その脇からインストラクターが手を出して答えを教えてしました。問題があるところから学びが始まるチャンスなのですが。
このプログラムのディレクターは言いました。どうか親は子離れしてください。ここではこどもが自らできるようにしていきたいのです、と。流暢な英語と教育の理想が語られました。しかし、インストラクターは結局は子離れできない親と同じことをしていたのです。
教育が知識偏重である批判はありますが、教育の在り方をまた別の理想で入れ替えても、結局それが言葉を知っているというレベルで止まっていれば、同じことが起こる。
教育のアップデートは、例えば課題解決型学習というピンポイントなことだけでなく、包括的な取り組みがなければ実現できず、課題解決型学習の醍醐味に至るまでに見えない大切なことがたくさんあります。
さて、そういう私も、最近カンボジアでの教育の一つの在り方、理想を作るお手伝いをしているわけですが。
工業化社会の教育を受けてきた自分。私はあの時の理想に近いこどもだったのか?と思うと、答えばかりを教える教育をつまらないと思っていて、わざわざわかりきったことを答えさせられるのが苦痛でした。きっと理想の生徒ではなかった(笑)
理想的な優等生でなくていい。その余裕が、生きやすい範囲を広げ、こどもを自由にし、主体的にし、結果として考える力、生きる力みたいなものを自ら習得していく幅をもたせる。教育を理想に近づけるのかもしれません。
いずれにしても、これさえ受ければ理想の教育!というものはなく。良いもの悪いものも含めて何からでも学びを得る姿勢は、普段からの習慣であり、学校だけが学びの場と区切らないことが大切でしょう。