他者の幸せを無理矢理でもいいから願おう

今の自分にはたぶん、原始仏教の言葉が一番有力だ。
自分は、「慢」の状態になっている。
慢の意識が強すぎる。
インターネットに長文を書くと、それは必ず慢に結びつく。
少なくとも、今は、「こんな自分をわかってくれ、見てくれ」という思いからしか、文章を綴れない。
インターネットという空間は、そういう慢の意識を誘発する。
慢とか、原始仏教とか、そういうものに頼らずにやれている人にとっては、なんのことかさっぱりわからないと思う。
インターネットに自由に記述して、広い意味で人に評価されようとすると、自意識が先鋭化する。この先鋭化した、自分をどうにかしてくれよ、という強い思いが、簡単に言うと慢なわけだ。そしてそれは、苦しみなわけだ。
今は、誰かに評価してもらう前提で長文を書くと、確実に慢の意識にぶち当たる。それがわかる。そしてそれを乗り越えようとしても、もう無駄なんだ。
慢を、慢で乗り越えることは不可能だ。レトリックではどうにもできないくらい難攻不落の鉄壁の自意識だ。
そして、レトリックで遊び続けられるほど、自分には余裕がない。
もっと、内的な自意識から外的な知覚に神経を散らばらせて、風通しをよくしないといけないんだろう。

例えば、耳クソをほじったあとに、自分はその指の匂いをかぐ。鼻クソでも同様だ。鼻クソを食ったりする。
それ自体は、別に自分としては良いも悪いもない。世間的には悪いかもしれないが、ひとまず置いておく(本当はこれが世間的に認められていないことが嫌で仕方ないが、これが慢なわけだ。)
自分が言いたいのは、インターネットに長文を書いて、鼻クソを無意識にほじって無意識に食うよりも、
「今から俺は鼻クソをほじって、それを食います。まずは右の鼻の穴からほじります」と宣言して、意識して、外的な知覚に集中させたいのだ。マインドフルネスなんて胡散臭い言葉じゃなくていい。
意識的に鼻クソをほじること、なのだ。

自分に必要なのは、
この自意識をどうしたらいいんだ、と格闘して鼻クソを無意識にほじることじゃなくて、
自意識のことは知らないが、「ひとまず鼻クソをちゃんと意識的にほじります」ということだ。
長文をスマホで打つとき、親指がスマホの画面を滑っている、と知覚を認識することだ。

自意識と格闘してはいけない、とは、それをいじると良くないということではなくて、外的な知覚に意識を分散できなくなるからだ。
意識のポートフォリオを意識する、とでも言おうか。
つまり、自意識と戦えば戦うほど、意識のポートフォリオが崩れていく。
鼻クソをほじるときに、右の小指が左右どちらかの鼻の穴を通って、鼻クソを見つける感覚は、しっかり意識しようと思えば感じられるのに、その知覚がおざなりにされてしまうのだ。

そして、思い切り意識を慢に寄せると、
「こんな自意識は不自由で不公平だ」という結論に達して、死ねないのに死にたいとしか言っていないどうしようもない状態に入っていく。
それは嫌なのだ。インターネットに長文を書くことは、少なくとも今の自分にとってプラスに働かないんだと思う。
今は、自分と同じような人に向けた文章しか、綴れない。そしてそれがゆっくりと自分を縛るのだろうと思う。

強制的に、他者への貢献とか、そういう話に気を持っていく。これは、納得の問題ではない。
納得できなくてもいい。修行なんだ。
そういう無理矢理が、自分には必要なんだろう。
だから、今後は、「今日、誰かにとって良い日でありますように」とだけ、願って、発信していく。俺は弱い人間だから、それをnoteでやったら、他の人が自由に記事を書いているのを見て羨ましくなるだろう。だからしばらくはツイッターでだけ上記のような願かけをやっていこうと思う。
一日に一回、自己を離れて、誰かの幸せを願うこと。
これは修行であり、最高の努力なのだと思う。
納得は問題ではない。自分は他人の幸せを願えない、などは関係がない。
自分がまっとうに生きるために、只管やる。
これを読んでいる自分と同じような人がいたら、やってほしい。
そして今後、何か良いことがあって、「誰かの幸せを願ったからかもしれないな」と思えたら、そんな瞬間を、大事に、インターネットなんかには出さずに、自分が手書きで、書いておきたい。








































慢 を断ち切るには、誰かの幸せを願ったり、貢献したり、貢献しようと思うこと、が重要のようで、それは幸運にも、理解できる。納得はできないが、そういうもんなんだろうな、と諦めがつく。



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