原始仏教とナンパ

昨日、原始仏教の本を見たあとに、映画を見た。
雨だったし、こんな日に家にいるとろくなことを考えない。
そして甥っ子が家に来ていた。俺は現在、こどおじニートだから、家にいると甥っ子の相手をしなきゃいけない。それは嫌だ。しかし、それが嫌で部屋に引きこもってたら本格的に終わった人間だと自覚させられる。
とにかく家にいるものじゃない。雨の日こそ家から出なければならない。

家にいる時間を減らしたいから、できるだけ長い映画を見ようと思った。
映画自体は特に面白くもなかったが、前に座っている女が一人で見に来たようだったので、終わったあとに話しかけた。
やけにすっと言葉が出た。原始仏教の本を読んで心が整理されているからか。
そして普通に盛り上がった。いい子だなと思う。勇気と自信をもらった。あの子に幸あれ。本当に。そして今度あったらセックスさせてくれ。

連絡先を聞けばよかったが、そのときは自分はとてもダサい格好をしていたので、なんとなく連絡先は聞けなかった。ダメではないか。なぜ聞かないのか。相手に悪いかなと思った。そこで 変なやつと思われたくない と思ってしまうのは、弱さだから変えたいな、と思った。変なやつと思われる可能性を引き受けていかないと、と。
本当に連絡先を聞けばよかった。

ダサい格好はしないほうがいい、と気づけた。俺は本当に変な格好をしていた。短パンに、中途半端に長い靴下を履いていた。家の、靴下が入っている棚の手前から何も考えずに靴下をとっただけだ。テキトーに生きるからそんなことになるのかもしれない。
そして、寝癖がついているかもしれない、と気になった。
ダサい格好は、したくなーい♪とウルフルズの歌詞が浮かんだ。

今後は、いつそのような機会があるかわからないから、ちゃんと寝癖はなおそう。ワックスとか使おう。違和感のある靴下は履かずに、ちゃんとした格好で外に出よう。それはやっぱり自信を作るのだと思う。
これも気づきだな、と思う。
自分は、変な寝癖がつく。そしてそれを直せばいいのに、不幸な髪型・髪質だ、そしてそんな髪質を持った俺は不幸だ、と思うだけで、なんら有効な対策を打たない日々であった。そんなようでは自信はカラカラに干上がってしまう。
中学生の頃の不良の方がまだちゃんとしている。彼らの頭はワックスでベトベトだ。香水の匂いではなく、ワックスの匂いをプンプンさせていた。彼らは、現実(髪型)をどうにかしようとしていた。中学生の頃の不良はいつも正しい。

感情から現実へ。

俺は今まで、女を見たら、
犯したいな
と思っていた。うん、異常だ。いや、異常なのか?
それは、仏教で言えば慢の心だ。
マンノココロ。
略してマンコだ。

原始仏教も、欲望すべてを基本的に禁止するから、性欲も禁じている。
しかしそれは無理だ。空を飛ぶくらい無理な話だ。
性欲は性欲として存在している部分は小さいだろう。何を言いたいのか。
つまり、ピュアな性欲に、自分をなんとかしなきゃとか、認めてもらいたいとかそういう過剰な意識が注がれた混合物を、我々は性欲と呼んでいるが、本来の性欲は、ピュアな部分だけなんだろうということ。
そうだとしても、俺にはその混合物を消し去ることがまだできない。

ありのままの心を見るなら、確実に俺は女を犯したいと思っている。良い人のように勘違いさせてめちゃくちゃに犯せたら最高だろうなと思う。6回くらい射精できたらいいのに、実際は1回目で大量に射精しちゃって、割と長い賢者モードになるんだよな、と思う。
(これらは反応につぐ反応で、この反応の連鎖が苦しみの連鎖だ。)
女を犯してはいけない、という言葉じゃ全然追いつけない速さで、反応している。
怒りにも似た感情、怒りにも似た速さ。
だから、せめてこの反応をキャッチする。
余計な判断は加えずに、ただキャッチする。
反応をキャッチすることは、できなくはない。
ああ、俺はこういう女を犯したいと思っているんだな、と。
セックスしたい!セックスしたい!という思いを、分解していく。
女という概念ではなく、目の前にいる女、身につけているもの、と具体的なものに気づいていく。
灰色のシャツが、豊かなバストによって起伏のある形状になっているな、それに自分は欲情しているな、と観る。
ここで たまらなく欲情しているな と書こうとしたが、やめた。 
たまらなく欲情しているな と観る でもいいんだけど、観る 自分は、たまらなく という副詞に引っ張られてはいけない、と思う。
副詞をあまり使わずに表現しよう、と思っている、いや、そう書いたら書いたで、
どっちでもいいか、と 思っている。

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