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ゲーム、スマホなどによる悪影響について考えてみた。


自分について

さて、なぜ私が急にこんなことを言い出し始めたのかというと、過去を見るたびに今の状況が楽しめないからである自分は思います。
環境的には自由度が増し、様々な出会いがあったにもそう思います。
筆者はまだまだ若年であり、ゲームやスマホなどが中学校の時から密接にかかわっている一人として話させて頂きます。
そのため私はまだまだ成長途中なのでその中にある考えというのに参考になるかも知れません。(ちなみにその方のため私の年齢は15歳と言っておきます。年齢による偏見はあると思うけどあんま出さないと嬉しいです。)
またこういう考えを発表すると百人百様である。そのため色々な意見を聞かせて欲しいです。
また筆者は様々な意見をまとめたような主張になっていてあまり新しい内容がないと断っておきます。
(日本語を上手に使えるようになりたいのでおかしいとこあったら教えてください!)
前提に今回は精神的面が大きく反映していて科学的な面からのアプローチはほとんどしてないと思います。

まず最初に自分がふとこの記事を書こうと思った一番の原因の詩を紹介します。 

一(悲観主義的な感じなのかな)


してその翌日も同じ事を繰返して、
昨日に異らぬ慣例に従えばよい。
即ち荒っぽい大きな歓楽を避けてさえいれば、
自然また大きな悲哀もやって来ないのだ。
ゆくてを塞ぐ邪魔な石を
蟾蜍は廻って通る。

太宰治の人間失格より拝借してきました。
人間失格では上田敏訳のギイ・シャルル・クロオとかいうひとの、こんな詩句…と書いてありますが、調べても出てこないのでもし全文を知っている方がいれば教えて欲しいです。

私はこの詩句を「その通りなのかもなぁ」とも思います。
なぜなら私は幸せは相対的なものだと考え、例えば超絶お金持ちの人がいて宝くじで千円当たったとして「わぁ嬉しい」程度に思うと考えます。
しかし超絶貧困で一銭すら持ってない状況下で宝くじで千円当たったとしたら(そのような状況が謎だが)もうそれはとても嬉しいですよね。
とまあそのように私が思うのを踏まえたうえで
この詩句では大きな幸福を避けさえすればいつも道理の生活となり大きな悲哀も来ないと言っています。
しかしながら現代社会に於いてゲームやスマホで簡単に且つ無料で精神的快楽を得ることが可能になったのです。
(ゲームやスマホは学校においてもコミュニケーション手段として用いられ依存しやすい環境にあります。)
つまり大きな悲哀を得やすい、よって精神的に不安定になりやすいと考えます。


二(五段階欲求)

マズローの欲求階層説を見ていきます。
現代社会ではLv2の安全欲求は簡単に満たせると思います。
しかし親和欲求以降になると突然とその欲求の達成は難しくなります。
しかしスマホ、ゲームなどだとどうなるでしょう。
ゲームではキルや特定の作業をするたび他人からの感謝やチームへの帰属意識を得れ、他人からの尊敬つまり承認欲求を満たせるというわけです。
それをいとも簡単に得られるわけですからゲームやスマホに依存しやすいわけです。

またSNSではフィルターバブルやエコーチェンバーも起きます。
そのため自分自身を肯定する意見を簡単に入手しやすいため
承認欲求、親和欲求に於いて満足が得やすいです。
さらに思想の極端化が起きるため、現実世界での不一致性もあり、またインターネットに依存するという負のスパイラルが起きると考えます。

まとめ

今回は二つの観点から見てみてみました。
快楽の慣れすぎによる不幸の衝撃増加。→精神の不安定化→インターネットに依存→思想の極端化
またこれに伴う時間の消費や労力の消費、金の消費もあると考えます。






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