見出し画像

休むことって何をするのか


予定の変更やキャンセルによって、
急遽空白のスケジュールが生まれる。
夕方から暇になることもあれば、
終日予定が無くなることもある。

ある人と夕食を共にした時、
「今日は何をしていたの?」と
当たり障りのない会話を切り出すと、
「何もしていない」とその人は答えた。

「何もしていない」とは何なのか。
だって、生きている限り、
時間という軸が発生している。
呼吸以外何もしていないはずがない。

「ただ自宅にいた」「だらけていた」
という内容の中でも、
ずっとベッドで横になっていたのか、
テレビを観ていたのか、
スマホを触っていたのか、
何もしていないの中にも、何かは必ずしている。

私はその「何もしていない」なりにしていた
「何か」を知りたい。

しかし、本当に言語化出来ないほどに
何もしていない場合もあるのかと、考えてみた。

予定がなくなったとき、
私は別の予定を入れようと企むクセがある。
予期せずに自分の時間を確保出来ることが、
小さな幸せでもあるからだ。
例えば、カフェに行く、本屋に行く、パソコン作業をする、など、
別の時間でやらなければならないことをその時間に済ませる。

けれど、それはせっかくの休息的時間を、
何だか休ませてあげないように思えてくる。
自分の首を自分で絞めている、
という表現が正しいような。

休むことに私は抵抗がある。

毎晩寝ているし、家に帰っている。
食事をするときはテレビを観るし、
コーヒーを飲む時間もある。

これ以上、丸一日なんて休んでいたら世の中から置いていかれてしまうのではないか、と考えてしまう。

休むことって、案外難しい。

先日友人からお手紙をもらった。
そのお手紙には「休むことも努力のひとつ」だと記されてあった。

その時、はっとした。
私はこれまで、休むための予定をほとんど作ってこなかった。
週に1、2日のアルバイトがない日は、
朝からカフェに行って、勉強をする。

それが、私にとっての「休日」ではあるが
「休むための日」ではなかった。


休んでいることに罪悪感を抱かなくていい。

もう少し、休んで、一息ばかりではなく、
もっと何息もついていい。
休むことって、何もしなくてもいい。

読書だって映画だって、
休日らしいことをしなくてもいい。

自分が休みたいように休んでいい。

私が今日は何をしたか、と振り返った時に、
「何もせずに休んだ」と、
恥じることなく、罪悪感を抱くことなく、
胸を張って言えるようになりたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?