ハイデガー『存在と時間』前半(スタンフォード哲学事典)

スタンフォード哲学事典「マルティン・ハイデガー」
2節「存在と時間」2.2節「第一編」
(執筆者Michael Wheeler/執筆年2011)

〈目的/モチベーション〉
・行為や行為者の理解のための洞察や啓発を得る
門脇俊介池田喬高井ゆと里らの著作を読む準備
・care/Sorge概念の理解 (+Frankfurt的なcareとの(非)関係性の見極め)

〈節構成〉
2.2.1 問い〔The Question〕
2.2.2 出会いの様態〔Modes of Encounter〕
2.2.3 世界内存在〔Being-in-the-World〕
2.2.4 デカルト主義批判〔The Critique of Cartesianism〕
2.2.5 空間性〔Spatiality〕
2.2.6 共同存在〔Being-with〕
2.2.7 気遣い〔Care〕
以下、各節の内容、というかキーワードのメモ。定訳がわかっていないが手元の翻訳・関連書籍の索引等で見当をつけながら。

2.2.1 問い〔The Question〕
〈存在〉の意味の問い:「存在する」とはそもそも何を意味するのか
・存在論的差異:〈存在〔Being〕〉と存在者〔beings〕。〈存在〉は、「存在者を存在者として理解可能にする」何か。ただし、この「何か」、〈存在〉自体を、一つの存在者と見なす(〈存在〉の存在者化)ことは慎まなくてはならない。

・〈存在〉の意味の問いに取り組むうえで〈現存在〔Dasein〕〉概念が重要
・〈現存在〉は大まかに人間を、あるいは人間の共同体によって共有された生活形式を指す。
・〈現存在〉の特徴。①自らの〈存在〉において、まさに自身の〈存在〉が自分にとって問題となる(関連して、人生のあらゆる局面で自身の可能なあり方を選択している)ような存在者。②〈~として捉える〉構造〔taking-as structure〕へと開かれている存在者。

・存在の意味は、〈現存在〉の存在者との日常的な出会いの様態を出発点として探求される(実存論的分析)。
・方法論は現象学。日常的な経験を出発点として、それらを注意深く吟味することを通じて、それらを形成・構造化しているアプリオリな・超越論的な条件を明らかにする。また、現象学は解釈学的な側面ももっており、超越論的なものはそれ自体歴史的な文脈に埋め込まれている。

2.2.2 出会いの様態〔Modes of Encounter〕
道具〔equipment〕特定の種類の仕事のための存在者。現存在は日常的に道具としての存在者に出会う。
手許性/道具的存在性〔readiness-to-hand〕:道具を技能的に操作・使用するというあり方。存在者に出会う様態として第一次的〔primordial〕。
道具的存在性という様態は、〈主体-客体〉構造をもたない。すなわち、一方で存在者は通常、使用中の道具を客観的な・独立した対象として意識されることはない(いわば「現象学的に透明」である)。他方で現存在自身も道具の使用に没入しており、自身を主体として意識しない。

現前性/事物的存在性〔present-at-hand〕:存在者を科学的・哲学的な認識の対象とするあり方。存在者に出会う様態として派生的〔derivative〕。
事物的存在性という様態は、〈主体-客体〉構造をもつ。すなわち、一方で存在者は〈もの〔Things〕〉として、文脈独立的かつ測定可能な諸性質の担い手として扱われる。他方で現存在自身も、対象の説明や予測を目指す主体となる。

非道具的存在性〔un-readiness-to-hand〕道具の使用実践がうまくいかなくなる(道具が現象学的に不透明になる)ときのあり方。
・非道具的存在性という様態は、事物的存在性とも区別される。現存在は、存在者を単なる諸性質の担い手とみなすわけではなく、円滑な道具の使用の回復を妨げる対象とみなしている。

2.2.3 世界内存在〔Being-in-the-World〕
現存在は本質的に世界内存在である。
・世界内存在とは統一的な現象であって、独立にとらえられた各要素を組み合わせる(たとえば、人という存在者が世界に対して「内にある」という関係的な性質をもつ)ような仕方で理解してはならない。
・現存在は世界の内に住み込む〔dwell〕。これは単に空間的に内部にあるという意味ではない。現存在は世界に属し、世界に馴染みの場所をもつ

適所全体性〔totality of involvement〕。道具的存在者をとりまく適所性のネットワーク。
・適所全体性が、現存在の道具使用の実践を理解するための文脈を与えるとともに、道具的存在者の意味を定義する。
〈「~のために〔for-the-sake-of-which〕」構造〉と表現しうるような現存在の可能なあり方。(例:大工であること、教師であること……)。適所全体性のネットワークを構成する全要素は、最終的に、この現存在のあり方によって基礎付けられる。
・上記の関係的かつ全体論的なネットワークが、現存在がそのうちに住み込んでいるところの「世界」を構成する。(ただし、「世界」というの語の存在者的〔ontical〕な意味において。別の意味での「世界」は時間性に関する議論のなかで明らかになる。)

2.2.4 デカルト主義批判〔The Critique of Cartesianism〕
・デカルトは事物的存在性から出発して、そこに文脈依存的な意味(いわば「価値述語」)を付与する。
・ハイデガーは道具的存在性から出発する。道具的存在性という存在様態において、存在者は文脈依存的な意義をすでにもつものとしてある。事物的存在性は、道具的存在性における実践の全体論的ネットワークにほつれが生じたときに見出される。
・ハイデガーによれば、事物的存在性から出発して「価値述語」を付与しても道具的存在性に到達することはできない。彼がこの論点について挙げている論拠は必ずしも明確でないが、ドレイファスの示唆によれば、この論点を技能知〔knowing-how〕と命題知〔knowing-that〕の区別によって補強できるかもしれない。

2.2.5 空間性〔Spatiality〕
・現存在の実存的空間性は、〈距離をなくすこと〔de-severance〕〉・近づけること、によって特徴づけられる。
・現存在と存在者の「距離」は、関連する道具的実践における現存在の技術的習熟の程度を示すものであり、空間的な距離とは区別される。
・関連して、道具的空間(ひいては「世界」)は、現存在に中心化された適所全体性によって定義される機能的空間である。
・『存在と時間』の記述に依拠すれば、物理的空間や身体性は実存的空間に依存する。(さらに、その実存的空間(適所全体性の構造)が今度は、時間性から導かれる。)しかし、この依存関係に関する主張について、(たとえばカント的な観点から)疑義を表明することは可能である。

2.2.6 共同存在〔Being-with〕
・日常性における現存在とは誰であるか。現存在は事物的存在者ではありえず、したがって、デカルト的な思惟する実体としての私なるものではない。
現存在は本質的に共同存在である。
・日常性における現存在は〈他者〔Others〕〉のための道具的存在者を通じて他の現存在を発見する。(この「道具的に媒介された他者の発見」という点は、直接的な他者との相互作用という観点から、複数の論者によって批判されている。)共同存在はこのような他者の発見の可能性の条件である。

〈他者〉=〈ひと〔the "they"/the one/ das Man〕〉:自身でもなく、特定の誰かでもなく、人々の集合でもなく、中立的な誰か。
・この誰かのあり方や振る舞いは、当の現存在が属する文化に基づく
適所全体性を基礎付ける〈「~のために」構造〉や、意義の指示連関のネットワークもまた、文化的・歴史的に条件付けられている
・現存在がその内に住み込んでいる世界は本質的に共同的なものであり、共同存在と世界内存在は緊密に結びついた概念である。

2.2.7 気遣い〔care〕
・気遣いは、現存在の存在様態であり、世界内存在の構造を統一する。
・気遣い(あるいは開示〔openness〕)は三つの契機によって構成される。  
 (a) 過去:被投〔thrownness〕/情状性〔disposedness〕
 (b) 現在:頽落〔fallenness〕/誘惑〔fascination〕
 (c) 未来:企投〔project〕/了解〔understanding〕

被投:現存在は、自分にとって何らかの仕方で重要な〔matter〕世界に投げ込まれている
情状性:現存在は、自分にとって重要な何かを世界のうちに見出す感受性〔receptiveness〕をもつ。これは日常的現象としての気分〔mood〕の可能性の条件である。
・気分や情状性は世界内存在の存在の様態である。それは現存在の「内側」からやってくる主観的な何かではない(かといって「外側」からやってくるわけでもない)。この意味で、世界が開示される気分のレパートリーは、文化的に条件付けられている

企投:現存在は、一群の行為の可能性としての具体的な状況に対峙し、そのうちの一部の行為を現実化する(一部の可能性に企投する)。現存在は、決定(被投)と自由(企投)の絶妙なバランスとして現れる。
了解:現存在が、一部の行為を現実化する過程。それは第一義的には道具的存在性における技能的実践の過程だが、(その実践のほつれにおいて)明示的に何かを解釈する過程や、事物的存在性において対象を特徴付ける過程でもありうる。
文化的に条件付けられた適所全体性が、現存在の企投可能性の空間を定義する。すなわち、適所全体性が、現存在の理解や解釈の実践(現存在の存在の実存的核心を成す、〈~として捉える〉活動の企投における顕在化を可能にする予-構造〔fore-structures〕を構成する。

頽落本来的な自己を失い、非本来的な自己として世界へと落下している状態。頽落の諸形態(世間話・好奇心・曖昧さ)は、世界からの誘惑を通じて、世界を覆い隠す
・頽落は共同存在の日常的な様態である。頽落においては、〈ひと〉が我々の振るまいを指令・規定する。
・頽落は現存在のうちに構造的に含まれる要素である。本来的な自己の獲得は、〈ひと〉の実存的な変革によってなされるのであり、非本来的な自己や〈ひと〉から切り離されることによってなされるのではない。

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面白い話題はあちこちにあるが、行為や行為者の本性という観点から特に興味深いと思われた洞察は下記。
① 現存在における自己のあり方の選択と〈として構造〉の開示:
現存在(行為者)の本質的特徴としての、自身のあり方を問題とし、また選択するというあり方、及び「〈~として捉える〉」構造への開示。
② 適所全体性を基礎付ける行為者:
道具的存在者をとりまく適所全体性のネットワーク、及びそれを基礎付ける行為者の根本的なあり方。
③ 適所全体性による行為空間の規定:
文化的に条件付けられた適所全体性のネットワークによる、行為への企投可能性の空間/行為の文脈の規定・定義。

また、「道具的存在を通じた他者の発見」という部分は、デイヴィドソンの「三種類の知識」(『主観的・間主観的・客観的』所収)における三角測量の話を想起するなどした。

第二編は自己の本来性が主題になるとのこと。いったんここまで。

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