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【知ってはいけないロシアの革命家】イサアク・ゼレンスキー

こんにちは。いつもお越しくださる方も、初めての方もご訪問ありがとうございます。

今回はイサアク・ゼレンスキーの英語版Wikipediaの翻訳をします。

翻訳のプロではありませんので、誤訳などがあるかもしれません。正確さよりも一般の日本語ネイティブがあまり知られていない海外情報などの全体の流れを掴めるようになること、これを第一の優先課題としていますのでこの点ご理解いただけますと幸いです。翻訳はDeepLやGoogle翻訳などを活用しています。

翻訳において、思想や宗教について扱っている場合がありますが、私自身の思想信条とは全く関係がないということは予め述べておきます。あくまで資料としての価値を優先して翻訳しているだけです。

イサアク・ゼレンスキー

イサアク・アブラモヴィチ・ゼレンスキー(1890/06/22 - 1938/03/15) はソ連の政治家、共産党幹部、大粛清の犠牲者である。1929年、一時的にウズベク・ソヴィエト社会主義共和国の書記長を務めた。

ウズベク・ソヴィエト社会主義共和国書記長
イサアク・ゼレンスキー

生い立ち

イサアク・ゼレンスキーは1890年、サラトフで職人のユダヤ人家庭の息子として生まれた。サラトフで学校を卒業し、1906年にロシア社会民主労働党(後のソヴィエト連邦共産党)のボルシェヴィキ派に入党する。オレンブルク、ペンザ、サマラ、ツァーリツィン、モスクワなど、ロシアのいくつかの都市で党の宣伝工作員として活動し、何度も逮捕された。

1912年2月、シベリアのナリム地方に流される。1915年、再び逮捕されイルクーツクに流されるが、シベリアに逃れた。しかし、1年後に脱出することに成功した。1917年のロシア革命では、モスクワでボルシェヴィキのために戦った。ロシア内戦では、モスクワで物資の補給を担当し、農民から農産物を強制的に没収した。

経歴

1921年、ゼレンスキーはモスクワ共産党第一書記に任命され、1922年からは第11回党大会によって中央委員会の正会員に選出された。モスクワ市委員会の第一書記として、ゼレンスキーは1924年にレーニンの埋葬を手配する委員会の委員を務めた。

1924年6月、彼は中央委員会書記に昇格し、書記長のヨシフ・スターリンと一緒に仕事をするようになった。1938年の裁判での証拠によると、ゼレンスキーの兄弟のアレクサンドルは、1924年にロシア帝国の秘密警察オフラーナの元工作員であることが露見し、射殺された。

彼は1924年8月、党組織の構築に参加するためにタシュケントに派遣され降格させられた。1924年から29年にかけて共産党中央アジア支局の書記を務めた。1929年、一時的にウズベキスタン共産党書記長に就任したが、しかし12月にアクマリ・イクラモフが彼の後任として初のウズベク人としてこの職に就いた。翌年、ゼレンスキーはイクラモフを退陣させようとしたが、中央委員会がイクラモフを支持したため、この試みは失敗に終わった。ゼレンスキーは1931年にモスクワに呼び戻され、国営消費者流通網を運営することになった。

ウズベク・ソヴィエト社会主義共和国の政治家
アクマリ・イクラモフ

見せしめ裁判

ゼレンスキーは1937年8月に逮捕された。1938年3月、モスクワ見せしめ裁判の最後にして最大のものである「二十一人裁判」の被告となった。裁判の中で彼は、1911年から兄弟と同じくオフラーナのスパイであったこと、消費財を担当していたときに、バターに釘を刺し、トラック50台分の卵を腐らせるという食品流通妨害の計画を立てたことを「自白」した。ゼレンスキーは死刑を宣告され、1938年3月15日に処刑された。

遺産

1959年、死後に名誉回復された。1988年、ソ連当局が「裁判はすべて捏造されたものである」と発表した。

コメント

イサアク・ゼレンスキーとウラジーミル・ゼレンスキー現大統領との血の繋がりは不明である。ウラジーミル・ゼレンスキーの父親(ウクライナの鉱山学の科学者・教授オレクサンドル・ゼレンスキー)、祖父(セミョン・ゼレンスキー)が共に共産主義者のユダヤ人ということもあり、ルーツが近い可能性は否定できない。セミョン・ゼレンスキーの父と三人の兄弟がホロコーストの犠牲者であるとしているが、真偽の方はどうなのだろうか。

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