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【イギリスのジャコバン主義者】ロンドン革命協会

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今回はロンドン革命協会の英語版Wikipediaの翻訳をします。翻訳のプロではありませんので、誤訳などがあるかもしれませんが、大目に見てください。翻訳はDeepLやGoogle翻訳などを活用しています。

学問・思想・宗教などについて触れていても、私自身がそれらを正しいと考えているわけではありません。

革命協会

ロンドン革命協会は、表向きは1688年の名誉革命とウィリアム3世の上陸から100年を記念して1788年に結成され、1790年代の英国にあったいくつかの急進的な協会の一つであった。ノリッジなどの地方都市にも同様の革命協会が結成され、シェフィールドと並ぶイギリス・ジャコバン主義の中心地となった。

10年にわたる平和の後、オランダ共和国とフランスは再び戦争状態に陥った。1672年のような英仏同盟を防ぐため、オランダはオレンジ公ウィリアムを派遣し、イギリス王国を支配下に置く。この出来事は「名誉革命」として歴史に刻まれることになる。

ロンドン革命協会のメンバーの多くは、1780年から1794年にかけての憲法情報協会(CSI)のメンバーでもあった。リチャード・プライスジョセフ・プリーストリー、アンドリュー・キッピス、エイブラハム・リース、セオフィラス・リンゼイ、トーマス・ベルシャム、トーマス・ブランド・ホリス、ピーター・フィンチ・マーティノーなど、一部のイギリス国教会に加えて多くの非国教徒ユニテリアンが協会の中心的なメンバーであった。1789年7月のバスティーユ陥落の際、ロンドン革命協会は急進派の中でも最も声高な協会であった。1789年当時の集会所はロンドン・タヴァーンであった。この団体は、当時まだ初期段階にあったフランス革命への支持を強めていった。1789年11月に行われたフランス国民議会での演説がきっかけとなり、フランス初のジャコバン・クラブが設立されることになった。1790年から1792年まで活動を続けたが、1792年以降、急進的な勢いはロンドン革命協会からSCI(※憲法知識協会)とロンドン通信協会(LCS)へと移行した。

ウェールズ出身の道徳哲学者、非国教徒牧師のリチャード・プライス
イギリスの自然科学者で非国教会の聖職者ジョゼフ・プリーストリー
一般的に酸素の発見者とされる
1809年のロンドン酒場

1792年と1793年の地方扇動裁判に続いて、ウィリアム・ピット(小ピット)が1794年の反逆裁判を開始し、1795年には扇動集会法が制定され、これらの学会のほとんどは1792年から1794年の保守派の反動で活動を停止したのである。

フランス革命期のイギリスの首相ウィリアム・ピット (小ピット)

コメント

ロンドン革命協会の特徴は主要メンバーの多くが、非国教徒のユニテリアンであることです。ユニテリアンの最も特徴的な点はキリストを神とは見做さない点にあります。東欧生まれのユニテリアン主義は、イギリスの国教徒から見ると旧約聖書の役割が大きく見えたのではないかと思います。

フランスのジャコバン主義者との関係などから個人的にはフリーメイソンの存在が見え隠れしてきます。

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