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【解説】革命家カール・ラデック|ロシアとドイツの革命

こんにちは。いつもお越しくださる方も、初めての方もご訪問ありがとうございます。

今回はカール・ラデックの動画を作成しましたの、その動画の紹介になります。もしかすると事実に反する内容もあるかもしれませんので、エンターテイメントだと思って、疑いの目をもってご視聴いただければ幸いです。

革命家カール・ラデック|ロシアとドイツの革命

こんにちは。

今回はカール・ラデックについて見ていきたいと思います。

――カール・ラデックですか?

――聞いたことないですね。

ラデックは、第一次世界大戦まえに、ポーランドとドイツの社会民主主義運動を行っていた、ユダヤ系のマルクス主義者で、ロシア革命後は、トロツキーと共に国際派の共産主義者として活動しました。

それではカール・ラデックの生涯について見ていきましょう。

ラデックは1885年に、オーストリアハンガリー帝国のレンブルク、現在のウクライナのリヴィウで生まれました。

リトアニア系ユダヤ人の家庭で、カロル・ゾベルゾーンとして生まれました。

――ラデックというのは本名ではないんですね。

当時は偽名を使っていた革命家が非常に多くいましたが、ラデックもその一人ですね。

1904年に、ポーランドリトアニア王国社会民主党に入党します。

1905年のワルシャワ革命に参加して、社会民主党が出していた新聞の編集を行いました。

ラデックは、ドイツ語、イディッシュ語、ポーランド語、ロシア語などを自在に操ったと言われています。

ポーランドで逮捕され、のちに逃れたラデックは、1907年にドイツのライプツィヒに移り、ドイツ社会民主党に入党します。

その後、ブレーメンに移り、マルクス主義の機関誌で、ドイツ社会民主党の指導者、カール・カウツキーを攻撃しました。
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910年、ラデックは、ポーランド社会党のメンバーから、党の同志の本や服、お金を盗んだとして訴えられました。

――ラデックには盗癖があったんですかね?

一説には、反ユダヤ主義のために捏造された、という話もあるようですが、どうでしょうね。

ポーランドリトアニア王国社会民主党のリーダーであった、ローザ・ルクセンブルクとレオ・ヨギヘスは、ラデックを擁護しました。

しかし、ヨギヘスが、ウラジーミル・レーニンと対立すると、レーニンに味方したラデックの窃盗容疑を復活させ、党の委員会を招集して、調査を行いました。

1908年8月にラデックは追放される決定が、党裁判所から下されました。
1912年、ユダヤ人で、ドイツ社会民主党のアウグスト・タールハイマーが党の機関紙の運営を一時的にラデックに任せました。

1913年に、ドイツ社会民主党の党大会で、ラデックがポーランドで党から追放されたことが取沙汰されました。

――ドイツ社会民主党に、党から追放されたことが知られたんですね。
当時、第二インターナショナル内の党から追放されたものは、他の第二インターナショナルの党に参加することができないという原則がありました。

これがラデックにも適用されました。

――ドイツ社会民主党やポーランド社会党などは、第二インターナショナルの組織だったということですか。

社会主義運動の政党の多くに、インターナショナル運動が関わっていたのは間違いないと思いますね。

ドイツ社会民主党のアントン・パンネクークと、カール・リープクネヒトがこの動きに反対しました。

パリ委員会に参加したインターナショナルのレオン・トロツキー、ウラジーミル・レーニンも、ラデックを擁護しました。

第一次世界大戦が勃発すると、ラデックはスイスにわたりました。

レーニンとブレーメンの左翼との連絡役をつとめ、レーニンにパウル・レヴィを紹介します。

――パウル・レヴィはどんな人なんですか。
レヴィは、裕福なユダヤ人の商家に生まれ、フランクフルトで弁護士として働き、ドイツ社会民主党に入党していた政治家です。

1915年のツィンマーヴァルト会議では、ラデックは第二インターナショナルの左翼に属していました。

――以前の動画でも登場しましたね。
ラデックは、ドイツ社会民主党から追われていたため、ツィンマーヴァルト会議では、ドイツ社会民主党の参加者が、ラデックが署名することに難色を示しています。

――そうなんですね。

1916年に、アイルランドで蜂起が発生しました。

レーニンはこれを支持しましたが、ラデックは、イギリスのユダヤ人、テオドール・ロースタインの意見を取り入れ、アイルランド蜂起がブルジョア的であるとして、批判的に見ていました。

1917年にロシアで二月革命が発生すると、レーニンをはじめとする革命家たちはドイツから封印列車で、ロシアに入国します。

ラデックも同行しますが、ラデックはロシアへの入国を拒否され、ストックホルムでボルシェヴィキの活動を支援しました。

――第三回ツィンマーヴァルト会議はストックホルムで行われたんでしたよね。

そうですね。

ストックホルムに残ったラデックは、盟友の一人である、ヤーコフ・ガネツキーとともにストックホルム会議に参加しています。

十月革命後に、ロシア内戦が始まると、ラデックはペトログラードに到着し、外務次官となり、ブレスト・リトフスク条約の交渉に参加しました。

他にドイツ軍や捕虜にロシア社会民主労働党のボルシェヴィキのプロパガンダを配布する役割を担い、条約締結に向けた議論の中で、ラデックは革命戦争を提唱しました。

ラデックはアドリフ・ヨッフェ、ニコライ・ブハーリン、フリスチアン・ラコフスキーらと共に、ドイツでのソヴィエト会議に向かいましたが、ドイツから公式代表として拒否されます。

――ドイツ社会民主党からは、ずっと拒絶され続けていますね。

1918年に、単独でドイツに不法入国し、ドイツ共産党の設立に繋がる議論や会議に参加します。

しかしドイツ共産党を作ったスパルタクス団蜂起が失敗すると、ラデックはドイツ当局に逮捕されます。

刑務所に収監されている間に、ヴェルサイユ条約が締結され、ドイツのボルシェヴィキに対する態度が一変します。

ラデックは釈放されるまでに、ユダヤ人実業家や革命家、トルコ人革命家などと面会しています。

ロシアに戻ると、ラデックはコミンテルンの書記となり、ドイツ問題の責任者となります。

――第二回コミンテルン大会では、コミンテルン、ソ連共産党の幹部と対立し、職を解かれます。

更にラデックは、レーニンの死後に台頭したジノヴィエフによって、第五回コミンテルン大会で、共産主義インターナショナル執行委員会から解任されました。

レーニンの死後、ラデックは左翼反対派のトロツキー陣営に加わりました。

このため、1924年に開催された、第13回の党大会でラデックは中央委員会から除外されます。

1925年に、ラデックはモスクワに新設された、モスクワ中山大学という、孫文の号を冠した大学の学長に任命されます。

――中国共産党だけでなく、中国国民党もソ連の共産主義政権から支援を受けていたんですね。

――それは知りませんでした。

これについては別の機会に説明できればと思っています。

ラデックは中国の学生たちから中国の状況を学び、その情報から、コミンテルンの方針に異議を唱え始めます。

この頃、ソ連はスターリンの一国社会主義が基本方針となっていました。

1927年、失脚したジノヴィエフらとともにデモを行い、ラデックは党から除名され、さらにソ連の地方都市に追放されました。

1929年にラデックは他の反対派のメンバーとともに、スターリンに屈する文書に署名します。

このため、トルコに亡命中だったトロツキーを支持する反対派から軽蔑されました。

1930年に再入党が許され、元反対派としては数少ない重要なポストに置かれました。

しかし1930年代後半に入ると、スターリンによる反対派に対する粛清が始まり、1937年の第二次モスクワ裁判で有罪となり、労役を課されました。

ラデックは労働収容所で他の収容者に殺害されたと言われていますが、スターリンの指示により殺害されたとも言われています。

――いかにもスターリン政権下という感じがしますね。

ソヴィエト政府によってモスクワ裁判で有罪となった多くの犠牲者が名誉回復されましたが、1988年に、ラデックも名誉回復されています。

今回の話はここまでとなります。

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