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言葉についての祈り(あいまいなものの尊さについて)
「言葉にならない思いを言葉にしないまま抱えてほほ笑むことができる人間になりたい。」
いつ書いたのか不明だが、折々書き足している手記にあった言葉だ。文章を書けることをたまに羨ましがられるが、書く生活はそのまま「上手く書けない苦しみ」の生活だと言えたらいいのに。
本を読み、文章を書き、言葉を紡ぎ続けるほど深刻になっていく実感。それは「ほんとうのことなど決して言葉にしえない。少なくともわたしには。」ということ。人生を生きていて、確かに色々なことを感じている。それをなるべくそのままのニュアンスで、言葉にしたい。
その願望は逆に、「そのままのニュアンスで言葉にできないくらいなら、何も言いたくない。書きたくない。」ということも意味する。大切な誰かに伝えたいことがある。でもそれを言葉で何と言えばいいのかわからない。伝えたいこと、自分がいま感じていることは、確かに存在するのに。
それは慰めや綺麗事とは限らない。その人の人格ではなくその人の理解に対して批判的になる。口に出すとその言葉はまるで人格への批判のように聞こえる。つまりは人を傷つける。逆もしかり、傷つけられる。こんなことなら何も言わず、ただ笑ってるだけの人間でいたいと思ってしまう。
善意や正義に聞こえる耳ざわりの良い言葉が、「人間を動かす」という明確な意図を持って悪用されることがある。わたしの直観は、二十数年生きてきて、やっとそのことをはっきり捉えた。だのに、その捉えたものを自分の語彙で表現し、伝達するすべを知らない。
わたしが文学や音楽に惹かれるのは、それらの中で紡がれる言葉が「言葉にしえない曖昧なもの」というラインを表現しているからだ。そして日常そのままを肯定してくれるものがあるからだ。究極の肯定。言葉にできないものを、できないままに認めること。結論のないものを、そのままに認めること。
いつの日か、直観で捉えているものを自分の言葉へと翻訳するための技術と注意力が宿りますように。そしてその日まで、曖昧なものを抱えながら沈黙と非行動を保てますように。
なぜなら多くの痛みや苦しみを抱えていながらもそれを無理に言葉にしようとはせずに、静かにほほ笑みかけてくれるような人に対してわたしは深く尊敬の念を抱くからだ。だから、話すときや書くときに上手く言葉にできないことで悩んでいたとしても、気にしなくていいと思う。むしろその人は、言葉という形で翻訳される前の段階の、ただ感じたことを大切にしてほしい。
「ただ感じたこと」に対して、言葉に翻訳したその瞬間から、「良い」「だめ」の判断にさらされ続ける。発声しなかったとしても、頭で考えただけで無意識に自分で判断してしまう。世の中の常識だったり、道徳律というものに照らして、判断は行われる。
「感じたことだけが全て」と言っているわけじゃない。ただそこに焦点を合わせること。感じたことを見つめること、磨いていくこと、表現すること、分かち合うこと。それぞれ尊いことだと思う。日常の一瞬を切り取り音楽に乗せるミュージシャンも、その音に共感する心も、誰かにこの音をシェアしたいと思う心も、尊い。
皆それぞれの苦しみがある。それぞれの優しさの形がある。それぞれの事情がある。わかりやすい言葉に一緒くたに翻訳して、都合よくコントロールするためのアイコンとして個々人を押しやるようなやり方には、たとえ声が震えてもNOを言い続けたい。
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