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遠きにありて思ふもの

会社のオフィスで、パソコンのキーボードを叩きながら、周囲のざわめきの中で意識を集中していたら、一瞬、ふと昔過ごした夏が浮かんだ。故郷の街、生温い夏の夜の空気、街灯に照らされた細い住宅街の道。神社。ひしめき合う人、汗のにおいと屋台の甘い匂いやしょっぱい匂い。中学の同級生。テキヤさんの日焼けした顔。たくさんの色の光。

もしかしたら永遠に戻れない景色。

かつて、四季はもっと色濃かった。学校に通っていたからだろうか。小さくて、でも密度の濃い街だったからだろうか。懐かしい、とも、戻りたい、とも違う。ただこんな場所でふっとよみがえるそれらの情景が、あまりにも遠いことに静かな悲しみを抱いた。

もう何年も夏祭りに行っていない。あの空気が好きだった。でも、わたしの居場所ではなかった。どこにいても、何をしていても四季は色濃く、世界は美しく見えたけれど、心から楽しくて幸せだった記憶は、どこにもない。ただ美しい世界を見ていたわたしがいただけ。

思えば、何と遠くに来てしまったんだろう。ひとりになれるならどこだってよかったのかもしれない。実家の畳の感触も、お寺ばかり並ぶ小さくて古びた街も、小学校の桜も、泣きながら眠った苦しい日々も、その時の硬い布団の感触も…。みんな、遠い。憶えているけれど、その日々がいまにつながってこうして最新の家具に囲まれながらゆったりひとりで過ごしているなんて、嘘みたいだ。

何が好きだったんだっけ?楽しい思い出は何だっけ?なぜ逃げたかったんだっけ?何がそんなに気に入らなかったんだっけ?何に苦しんでいたんだっけ?

ちょっと前までは、忘れるな、と自分に言い聞かせていたのに、いまは、もうどうでもよくなった。

戻れると言われても、わたしは戻らないだろう。ただあの街の夏の濃い匂いが、ふとした瞬間に脈絡なくよみがえってくるのが、ぼんやりと悲しいだけだ。

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