イグBFC4の思い出
イグBFC4というイベントに参加しました。
結局最後まで運営者の正体は明かされなかったけど、こうした有志イベントを企画いただくことは本当にありがたく、感謝の意味もこめて、参加の感想をここに残させていただきます。
特には運営関係者の小林猫太氏が、イグ初回からの道程も俯瞰した熱い閉会宣言を発されたので、こちらに対して思ったことを述べていきます。
以下、運営者さんへ、そしてイグに関わった人たちへ。
イグとは何か
イグというイベントのおもしろさ、それはまさに「イグ」という価値基準にあると思う。
イグとは何か。
何だったのか。
その哲学問答はもはや風物詩にも思えるが、答えはなく、人の数だけイグがある。それはエログロかもしれないし、笑いかも、それとも「一般文芸では書けないこと」なのかもしれない。狂ったもの、愚かなもの、型破りなもの、あるいはやはり良いと思われるもの、あるいは、それら言葉では形容できない、ただ「イグ」としか言いようのないものかもしれない。
「イグ」は人によって違うので、ゆえに、僕の一票は誰かの一票とは同じ価値を持たない。優劣もなく、いうなれば橙色の票と水色の票くらいの違いでしかない。本来集計をすることもできない。
と、今回初参加のくせに偉そうに言ってみたけど、それも違うかもしれない。でもそれでいい(と、運営は背中を押してくれるか、それとも飛び蹴りでもされるかもしれない)。
そんな「イグ」について、今回は「自分がアホであると思うもの」との定義付けがなされた。この「アホ」なる基準も絶妙で、上述した多様性がほとんど失われていない。アホとは何か。辞書的な定義こそあれ、これも広い価値観を思わせる言葉だ。
もちろん「イグ」よりははるかに身近で、はるかにその意味は確かではある。が、それはむしろ参加者のハードルを下げてくれ、僕はこの定義づけは悪くなかったと評価している。
勝利は果たして喜ばしいのか
小林猫太氏の閉会宣言によれば、「自分がアホであると思うもの」との定義づけの背景には、イグが権威性を帯びることへの危惧があったともされる。
多様性の話にも関連するが、このイベントで評価されることは果たして良い事だろうか。それとも悪い事だろうか。
運営や小林氏は折に触れ、イグとは本来「敗者オブ敗者」を決める祭りである、と釘を刺している。勝ち進むことが喜ばしいとは限らない。むしろそれは愚かしい。
参加作全作に感想を書かれたイグナイトファングマンもこの点はきっと理解されていて、イグであると評価すること、イグナイトファングを飛ばすことを、必ずしも良いこととはしていない。(より正確に言えば、良いとも悪いとも言わず、氏における「イグ」の基準に当たるか否か、の判断のみがなされている)
(まあイグナイトファングマンはすっかり様式美化してしまって、禅寺観光で棒に打たれて喜ぶ観光客的な、イグナイトファングの意味如何を顧みない反応が多数だし、かくいう僕もその一人ではあるけど)
イグナイトファングマンは「人工イグ」みたいな言葉を遣ったり、否定的な意味合いで「これはブンゲイである」と断じたりもしていた。ここでいう「否定」とはイグに対するそれであって、一般基準から見た作品の良さの否定ではない。
ある人は票に(あるいは「イグ」に)否定的な意味を込め、またある人は肯定的な意味を込める。その否定と肯定の基準もまた人によって異なるという、まさに多様性、あるいは混沌の美しさがここにある。
とはいえ、自然界にも人の社会にも、完全な均一は存在しない。正しいランダム性は局所的には偏りを生む。
イグにおいても、多くの人はおおむねポジティブな意図で投票していたように見受けられたし、「イグ」ないし「アホであること」もポジティブ寄りで、ゆえに勝者は称えられる。実際、今回含む歴代勝者や、最終に進んだ作品群は普通に名作揃いだしね。
ということで、そうして勝者たちはポジティブな評価に浴し、イベントに権威性を生じさせる。
人たちの集まりは、周縁を志したはずのイグに重力を帯びさせてゆく。
アナーキーでなくてはいけないか
権威性を帯び始めたイベントをアナーキーな運営が嫌ったことは理解できる。好き嫌いはそれぞれなので、嫌いなら嫌いで仕方ない。
ただ僕は、仮に権威性を帯びたとしても、イグというイベントには固有の価値が残ると思っている。
ひとつには、すでに述べた通り、価値基準の不確かさがある。多くの人がよいとするもの、あるいは審査員がよいとするもの。ではなく、参加者それぞれが「イグ」とするものを決める。イグが何かはわからない。という、正負両性のベクトルを孕む曖昧さは今のところ、他の何ものにも代えがたい。
もっとも、この不確かさ、曖昧さが損なわれる事態は恐れるべきで、今回の「アホであると思うもの」との基準設定の背景にも、そのような恐れがわずかであれあったと思う。ならば今回の基準設定はよい実験にもなったはずで、この是非や結果は次回に活かされたい。
そしてもうひとつの価値が、「イグ」の持つ非日常性だ。「アホ」もまさにわかりやすいけど、公募はもとより、文筆系のイベントで敢えて「アホ」を目指すことってほとんどないよね。いわんや「イグ」をや。
そうしてみんなが「イグ」になりきり、あるいは普段ひた隠しにしたイグをポロリと晒す。その非日常性もイグの大きな魅力と思う。参加者は「ここでしか書けないこと」を書き、「ここでしか読めないもの」を読むことができる。
だからこそ、そうした唯一性・固有性があるからこそ、ブランドになってゆくのは当然ではある。だけどイグの場合は最初から権威性への警鐘が運営により鳴らされていて、とても尊いことだと思う。
アナキズムとは決して到達できない理想を目指す所作そのものに違いなく、このベクトルの絶えぬことを願う。
自作についてちょっとだけ
ところで話は変わるけど、自作について一点補足。
僕は今回、『或る干渉』という話で参加した。これはイグ4の運営当てを導入としつつ、内輪ノリの温度差的なものを描こうとしたお話だった。
これについて、小林猫太氏閉会宣言の次の言葉が気になった。
この言葉は別に拙作に向けられたものではない。ただ、拙作に対していただいた参加者からの感想のなかには「こういうイベントも内輪に見えるのかもね」みたいな言葉もあり、気になった。ので、蛇足ながらここに述べたい。
僕は決してこのイベントや、周辺界隈について揶揄したり、冷笑する意図でこの作品を書いたわけではない。
もちろんSNSのクローズドサークルや、こうしたイベントには閉鎖性もつきもので、そういうのもを「あるある」的な感じで書こうとはしたけど、皮肉るとかそういう意図ではなかった。
なので、もしこのお話についてイグに対する批判的なニュアンスを感じられた人がいたら、まったくそのつもりはなかったとだけ言っておきたい。
というかこの話では「内輪」にまつわるある事件を書こうとはしたのだけれど、話の構造として的外れなものになってしまった。それは、こうして文字にしてみて、かつ人の反応を得て初めて気付けたことだった。「イグ」でもなければこんなモチーフは選ばなかったので、後ろ向きな話を書いてしまって不本意な気持ちはありつつ、「イグ」に参加できてよかったと思う。
次回に向けて
感謝を込めて、と冒頭に言いつつ自分の言いたいことだけ言っちゃて感謝にも何もなってないので、最後になっちゃったけど一言。
僕は今は小林猫太氏の単独犯だと思ってるけど、もし複数いらっしゃるなら運営の皆さま、お疲れさまです。開催してくださりありがとうございました!
次回あるかわからないけど、あれば次回も己のイグに向き合いたいです。
小林猫太氏は次回は運営から外れるとのことなので、代打で海野是空さんとか、推薦します。
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