3歳になる娘の我侭がひどい。
少しでも気に入らないことがあると癇癪を起してママを叩いたり,地団太を踏んではあたり構わず,アタシは怒っているのだと強く主張するようになった。
成長を喜んでよいのか。
とは言え目の前の暴君をよく成長したなと頭を撫でてやるわけにもいかず,夫婦は話し合いの末,途方に暮れる。
残業時間が増えるに連れて,僕の仕事は加速度的にミスが増え,それがまた更なる残業時間を連れてくるようになった。気が付くと毎月の残業時間は200時間を超えていて,それをいかにして「残業していないように見せかけるか」に悩み,それがまた苦痛を生んだ。
契約書に記載された金額をヒトケタ間違えた。
3度見直した契約書だ。
上司は僕を大きな声で呼びつけて,僕は彼の前で頭を下げた。もう辞めます。みんなの迷惑にならないうちに。そう言ったとたん上司は,まぁ待てと僕を慰留したが,その時の僕の頭の中は,何をどうすれば誰にも迷惑をかけずに済むのだろうかとただそればかりが駆け巡っていた。
年越しを会社の自席で迎え,いまが何年の何月なのかもよくわからないまま,とにかく僕は仕事をした。し続けた。
良くないことはとかく続くものだ。
そんな先の見えない真っ暗な道中,肺がんを患っていた父が肺炎を起こして,救急搬送されたという連絡をもらった。病院へ急いで駆けつけると,テレビドラマでよく見る機械につながれた父が横たわっていた。心音波形を示したそれは今はまだ正常な波形を描いていたが,医師はここ数日がヤマだろうと言った。
元より覚悟はしていたが,唐突に訪れるその瞬間に,ひどく動揺していた。
父が生きていることとそうでないこと,その差は思ったよりもずっと大きな差なのだと,覚悟していたその覚悟がいかに机上的で,楽観的で,とにかく現実を目の当たりにした僕は,無意味にそんなことを実感していた。
娘が生まれたのは,そんな暗中模索のさなかだった。
僕の闇はきっとどこまでも続いているのだろうと,光が差すことを諦め始めていた,そんな時だった。
彼女の生まれた瞬間の泣き声をやっぱり僕は聞けなかった。
彼女の世界が始まったその瞬間を僕は見届けられなかった。
その代償はあまりにも大きく,後悔は今なお続く。
けれども,彼女が生まれたという事実は,思いがけずそれだけで僕を救った。スマートフォンに送られてきた一枚の写真,純粋無垢なその笑顔は——それはまだ厳密に笑顔と呼べるものかどうかはわからないが——世界すら救うだろうと本気で思った。彼女が降りたこの世界は,彼女が降りたというただそれだけで十分に明るく華やかだった。希望が溢れて出していた。
僕はなんてついているんだろう!
今は辛いかもしれないけれど,その先はきっと明るい!
この子の笑顔がそう言っているじゃないか!
僕の世界は,この子たちがいればそれだけで光り輝くのだと,それはもうほとんど核心で,真実だった。
その日,仕事を終えた僕は一目散に妻と子たちが待つ病院へ向かった。仕事は残っていたけれど,知るもんか。
逡巡することなく,駆け足で新しい家族の元へと向かう。
初めまして。
この美しい世界へようこそ!
生まれた瞬間に立ち会えなかった代わりに,最初の贈り物は僕がした。
彼女の顔を見たその瞬間に僕の頭に浮かんだ言葉。
それが彼女の名まえ。
あかり
君の名は,君の行く先を照らす道標。
君がこの先どんなに辛くても,悲しくて,行先が暗闇に覆われたとしても,道に迷って時に自分を見失ったとしても,きっと君の名が君を導いてくれるだろう。
そして,君自身がみなの道を照らして欲しい。
君自身が,みなを導く道標であってくれたらうれしい。
少なくとも君は,生まれたばかりの君は,一度父を救ったのだ。君の大きな泣き声と,君のまだ笑顔と呼べるのかわからないうれしそうな表情と,君に与えられたその名に父は救われたのだ。
いつか君が大きくなったときにそんな話をしてやろうと思う。
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