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パンピが「お笑い」について真剣に考えてみた。

まずは私の身近な反抗期パンピのお話をひとつ。

奴は学校で部活に所属していますが、ある時期、部活全体に停止処分が下りました。反抗期には理解し難い理由での処分でした。このコロナのご時世で、ただでさえ練習も思う存分にできていないのに。本人たちからしたら理不尽極まりなかったのです。

なので奴らは、普段なら部活を行っているはずのその空いた時間に仲間みんな集まって公園で遊びました。すごく楽しかったんでしょうね、奴は満面の笑みで帰宅しました。しかしそこで待っていたのは鬼面の保護者です。

保護者は必死かつ丁寧に、奴に向かって「部活停止処分」や「自粛するということ」について説明を行いました。自粛とは、反省のために家で大人しくするということ。空いた時間は、自習や家でできる個人練習にあてるべきだということ。しかしどれだけわかりやすく合理的に説明してみたところで、相手は反抗期真っ只中です。素直に了解するわけがありません。

保護者のお説教のあとで、反抗期パンピはボソッと呟きました。

「だって宮迫もYouTubeしてるのに」

パンピです

どうも、パンピのまつ子です。パンピですので、テレビ関係の仕事をしているとかその辺と何かしらの繋がりがあるとかではございません。また、ものすごいお笑いファンであるわけでもございません。YouTubeで漫才のネタ動画が流れてきたら見ちゃう、番組表でネタ番組を見つけたら録画しちゃう、くらいのもんです。ちなみに一番好きな漫才コンビはNONSTYLEです。高校の時に友達に勧められて以来、ハマっています。

先日、monogataryさんのお題「新しい動画サイト」に沿って「ラッカンへようこそ」という話を書きました。ずっと書きたいと思っていた、昨今の娯楽についての話です。コンプラ、多様性、道徳性にうるさい現代における「お笑い」の意義とは。パンピの目線で書きました。

でもそこに収まり切れなかった云々がまだあるので、この場でダラダラ書いてみたいと思います。どうぞお付き合い願います。

私と「お笑い」

今でこそNONSTYLE大好きパンピのまつ子ですが、大昔は「お笑い」があまり好きではありませんでした。ハッキリ言いましょう。大っ嫌いでした。

未熟な子が多く集まるところでは、「笑い」は鋭利な武器になりやすいです。上手く周りを動かして、対象物や対象者を「笑う」という構図はよく見かけますね。経験のある方も多いのではないでしょうか。

私はそれを見て「クソバカバカしい」と感じていました。それに加えて、すごいもんを見せられたんです。同級生のオリジナル漫才です。途中で体育館全体を使った鬼ごっこが始まるという、世にも恐ろしい即興漫才でした。小学生の頃の話ですから、まあ無理もありませんが。すごかったですよ、共感性羞恥による鳥肌が。

そういう「お笑い」に対するネガティブな印象が、ガラッと変わる日が訪れました。それは落語との出会いでした。「てれび絵本」というNHKの番組で、子ども用にかかれた落語の絵本「えほん寄席」のアニメを見たんです。偶然たまたま。私が初めてみたのは「あたごやま」というお話でした。この時期、NHK連続テレビ小説「ちりとてちん」がやっていたのでそことの関連だったんだと思います。

まさに目から鱗です。「あたごやま」の登場人物の人間味溢れる考え、行動、その結果、それから巧妙な語り、ストーリー性。全てが幼き私の胸をぶっ刺しました。とても知性豊かで高次元な雰囲気なのに、小学生の私でもめちゃくちゃ笑えたんです!

それから「ちりとてちん」を見、実際に生の落語を見、「落語家になりたい!」とほざく小学生ができあがったわけです。

「笑う」とは悪か

落語を知ってからというもの、「面白い話」にゲラゲラできるようになった私でしたが、「果たして、「笑う」という行為は悪であるだろうか」という問いには、自信を持って首を振ることができずにいました。長い間。

それを解決するヒントをくれたのが、カジサックさんとココリコ田中さんの対談でした。

カジサックさんが「小さい頃好きだったお笑い」について尋ねた時、ココリコ田中さんがこう答えています。

「コメディが子どもの頃から好きで。
ネガティブなこととか、ミスとか、失敗とかを、コメディ映画って、笑いに変えてくれる。」

「お笑い」の原点って、まさにこれじゃないでしょうか。「ああやっちゃった」っていうミスを笑い話に変えて消化する。ネガティブなことを笑い話に変えてポジティブに変換する。

プロの芸人の方にとっての「お笑い」について、もうひとつ。これは志村けんさんのお話です。何のバラエティだったか忘れてしまったんですが、「志村さんはなぜお笑いをしているんですか?」という質問に対して、こんな感じでお答えしていました。

「戦後ってみんな貧しかったんだよ。辛いことも多くてみんな余裕なくて暗かった。でも、一度テレビに集まれば、みんな笑って楽しいんだ。ああ、「お笑い」の力ってすごいなって思い知らされたよね。」

余談ですが、私の祖父も似たようなことを言っていました。ただし「お笑い」ではなく音楽についてでしたが。

つまり、人はしんどい時こそ芸術に救われるんだと思います。そう考えると、一概に「笑う」ことは悪だと言い切ることができません。

「お笑い」の原点は、ミスや失敗を笑いに変換して消化し癒すことにある。
「お笑い」はなぜ笑うのか。それは人間だからこそ起こりうる誤解や勘違い、すれ違いや空回り、コミカルで滑稽なできごとなどのアクシデントを、人類ごと愛おしく思うからだ。

こう定義してみると、バラエティ番組が見やすくなる気がしてきませんか?仮にそこに悪質な、人を見下すようなバカにして貶めるような、下品かつ倫理観に欠ける「お笑い」があったとしても、上手く線を引いて区別することができるのではないでしょうか。

いじり

「いじり」は、人が人を笑うことの中でよく問題として取り上げられています。「いじり」と「いじめ」はどう違うのか。「人志松本の酒のツマミになる話」で、いじられ芸人である出川さんが悪口の境界線について、こんな発言をしていました。

「言われた方は、愛情あるかどうかはっきり分かりますから。松本さんや(ゲストの)さまぁ~ずの2人は僕の事バカにしまくってても愛情あるって分かるけど、特に若手の頃は、あまり面識のないグラビアアイドルもそれにのっかってイジってきたりしたんです」

そもそも、「いじり」とは礼儀が厳しい縦社会かつそれぞれのキャラがハッキリわかりやすい芸能界特有の文化ではないでしょうか。

例えば、表でAがBをガンガンにいじり倒したとして、ショーのあとで「先程はいいパスをありがとうございました」「いやいやこちらこそ、いじり過ぎてしまってごめんな」と挨拶ついでに会話を交わしたとかいう話、よく聞きませんか?プロの芸人の方はプロなので、あまりそういう話をしたがらないらしいですが、ちょっとしたエピソードトークなどで、そういう芸人さん同士のやり取りが垣間見えます。

よく聞く言い方ですが、いじりは信頼関係があってこそ成り立つものだと思っています。その信頼関係とは、目に見えないわかりにくいものではなくて、礼儀や挨拶として目に見える形で現れるものではないでしょうか。だから出川さんもハッキリわかるとおっしゃったんじゃないかな?

私を含めたパンピも、簡単に人をいじりがちですが、そこはプロの芸人さんを見習ってこっそり「さっきはごめんな」と断りを入れておきたいところです。また、行き過ぎだと感じた時には「それはちょっとやり過ぎちゃうか?」とストップをかけられるようになりたいですね。

ちなみに、私の中でいじり漫才のトップはNONSTYLEです。言わずもがな。井上さん復帰のネタは、歴史に残ると本気で思ってます。とんでもない愛情と信頼関係があってのものだということが一目瞭然ですね。1000万回再生突破おめでとうございます。

早く歴史になれ

さて、まだまだ笑いにくい「お笑い」は存在します。時事や社会問題を取り扱った「お笑い」です。今、この瞬間にも、その問題で苦しめられている人がいる。だから笑うことに罪悪感が伴って苦しい。

これに関してはもう、その問題たちが歴史になるのを待つしかない気がしますね。

日々ニュースを見ていると「おい、あれは大昔の問題じゃなかったのか」「まだ続いてんのかよ」と絶望することが多々あります。いや、多々多々あります。多過ぎです。もう嫌になります。

それでも漫才やコントの題材に時事問題が登場することを、私は「やめて」と言いたくありません。むしろ笑いたい。叶うならば、全ての問題が歴史になった世界で、みんなで腹を抱えて笑いたいです。

でもまだしばらくはそんな世界訪れそうにないので、代わりにとんでみることにしました。今はそんな世界ではないけど、全ての問題が歴史になった世界の住人のつもりでそのネタを見るんです。

そうやって見てみると色んな発見があって面白いです。上で紹介した拙作「ラッカンへようこそ」には、モデルになっている実際の漫才のネタがありますが、あれは本当に芸術的だと感じました。時事を取り扱った漫才は多いですが、こう、隠喩でメッセージ性を感じるネタはそう多くないです。

それは誰のどのネタなのか。これはその芸人さんのスタイルを尊重して黙っていることにします。気になった方は是非インターネットの海をサーフィンして探してください。

プロへ敬意を

私は芸人さんが本当に本当に大好きです。特定の誰かを取り上げて熱狂的ファンであるわけではないですが、それでも、もはや芸人として生きることが芸術的なまである彼ら、彼女らのことを、心の底から尊敬します。その「お笑い」に対する技術や熱意、漫才やコントのネタなどの他でも、冒頭で出たように、話題に上げるだけでパンピは笑いを取れたりする。もうその存在が尊いしありがたいのです。我々パンピが受けている恩恵は、計り知れません。

メディアの伝え方や大衆の解釈によって、苦しめられることもあるでしょう。「それは本当の自分じゃない」と大声を上げたくなることもあるでしょう。それ以外にも、私みたいなパンピには想像できない苦しみや悲しみがたくさんあるのかもしれない。

それでも、「お笑い」をしてくれてありがとうございます。幸福の「笑える」瞬間をたくさん、ありがとうございます。

私は日本の「お笑い」文化が大好きです。

蛇足

途中、体育館で鬼ごっこし始めた小学生の即興漫才を紹介しましたが、私はその約10年後に似たような漫才を見ます。ミキの、歳の差のネタです。ミキの漫才では共感性羞恥による鳥肌は立ちませんでした。安心して見れたんです。さすがプロ。

もし私の同級生にもっとセンスと知性があったなら、私はミキの同級生になれていたのかもしれません。

最後の最後に、私の失敗を笑っていただけませんか。最近、第5回自作小説の一節賞がありまして。5つくらい出しましたが、一つも引っ掛からなかったです。

敗因はわかっています。慢心ですね。ちょっとトチ狂っていた時期に書いた小説があったんですけど、それを褒められたもんで。そこから引き出しましたが、さすがにバカでした。あんな単語入っているやつで肉のカタログもQUOカードももらえないわな。

おい!私のツイートを遡るなよ!ダメだからな、絶対!絶対!!

(見てしまったのなら大声で笑ってな。)

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