鈴木惇の、アビスパと共に歩んだ20年とこれから。
はじめに
アビスパユースの最高傑作といえば、誰だろうか。
仮に今投票を行った場合、現・日本代表の冨安健洋を挙げる人が1番多いだろう。しかし、冨安が現れるまでは最多得票は間違いなく、この男のものだった。
鈴木惇。アビスパのユースで育ちU-20日本代表までは選ばれて当たり前という存在だったが、それ以降パタリと呼ばれなくなってしまう。それでもこれまでリーグ戦で406試合に出場。入れ替わりの激しいサッカー界において31歳でのこの出場数は誇るべきことであり、息の長い選手になっている。
ただ、2020シーズンをもってアビスパと契約満了。プロとして11年、ユースからを合わせると20年近くもの間を過ごしたクラブから完全に離れる時がついに来てしまった。
それでも、彼のサッカー人生はまだまだ続く。このタイミングが正しいのかは分からないが、人生の3分の2ほどを過ごしたクラブと離れることは大きな節目だろう。これが彼にとって良い転機になることを願いながら、感謝の気持ちを込めてこれまでの軌跡を辿る。
ちなみに、いつもは記事の中での名前は名字で記載するが、惇という愛称でアビスパサポーターに愛されているため、今回は惇と記載する。
プロになるまで
サッカーを始めたのは3歳。脳神経外科医である父親の留学先、アメリカでだった。
5歳の時に帰国し、最初は新宮にある湊坂FCでプレーしていた惇だったが、小学3年生の時に早くもアビスパとの縁が生まれる。
週1回しか練習がなく対外試合もたまにしかない自分のチームに物足りなさを覚えていたこともあり、たまたまアビスパU-12を見かけてどうしても入りたくなったのだった。その年度の終わりにセレクションを受け、合格。
晴れてアビスパの一員となった惇の視線の先には、2人の目標となるプレーヤーがいた。
2つ上の代にいた、多久島顕悟と安田忠臣。のちにトップチームへ昇格することになる彼らを追い掛けるべく、練習を積んでいく。
やはり明確な目標があると人は頑張れるのだろう。努力の甲斐あって少しずつ評価を上げ、U15の日本代表に呼ばれたことを皮切りに、各年代の代表に選出され続けることに。
アビスパにおいても、U-18に昇格した2006年には高校2年生ながらトップチームの練習試合に参加するようになった。
私個人の思い出というか余談になるが、この当時年代別代表に呼ばれるようになっていた惇は有名で、母校にアビスパU-18が練習試合に来た際には、惇見たさにわざわざ放課後に残って校舎の窓から友人と見たものだった。
2007年にはトップチームのキャンプにも参加。6月には2種登録されてアビスパ初の高校生Jリーガーになり、リーグ戦にも4試合に出場した。
トップチーム昇格後
ついに翌年、ユースで同期の大山恭平と共にトップチームへ昇格。
1年目から18試合に出場すると、その後も着実に出場数を増やしていく。
2009年には39試合出場と完全に主力となったが、最初の壁にぶつかったのは翌・2010年だった。
J2で好調なチームとは裏腹に、中町・末吉というボランチコンビの牙城を崩せず、24試合に出場したものの3番手という扱い。
それもあってか、代表にも呼ばれなくなってしまう。
チームはJ1に昇格したとはいえ、この頃惇は不貞腐れたりもしたという。それでも、人の話を聞いたり試したり、少しずつ取り組み方を変えることで2011年にはJ1で30試合に出場してみせた。
しかしアビスパはJ2降格。惇は翌2012年も36試合に出場したが、2013年、突然東京Vへ移籍する。
当時の惇は「自分がやるべきことはやり切っている。環境の問題。」と本人ものちに語ったように甘い考えで移籍を決意したが、選んだのは想像以上に大変な道のり。東京Vには偉大な先輩がたくさんおり、毎日のように怒鳴られながら練習することになったのだ。ただ、これは惇にとって良い経験となった。
2年間東京Vで主力としてプレーし2015年に再びアビスパへと戻ってきたが、城後が「あの移籍を通して冷静に、話し合いで解決しようとするようになった。」と話すように、精神的に成長を遂げていた。
サッカー選手というものは、心身ともにバランス良く成長する必要があるのだろう。精神的に鍛えられた成果を、惇は2015年に早速示す。ボランチながら機を見た攻撃参加で得点を重ねて9得点。チーム得点王に輝き、アビスパをJ1昇格へと導いた。文句なしの中心選手として。
長い長いJ2でのプレーを経て、惇は翌年ついにJ1の舞台で輝く、かと思われた。
しかし2016年、開幕からの3試合こそスタメンに名を連ねたものの次第に序列を落としてしまい、出場数はたったの9試合。しかもベンチ外の試合も多く、チームはJ2降格を喫する。
2度目の移籍の意味
J1で通用しなかったという現実を突き付けられ、惇は自らに更なる成長を課した。2017年、大分へ期限付き移籍という道を選んだのだ。
現在も大分の監督を務める片野坂監督からゲームメイクの部分などを評価され、新たな環境でも完全に主力として戦い、翌年アビスパへ復帰した。
ここまで2度の移籍を経験しながらその後アビスパに復帰している経歴で分かるだろうが、惇のアビスパ愛は非常に深い。
「アビスパは家族の次に長い時間を過ごしている場所。結果で恩返ししたい。」「アビスパは特別なクラブ。どんな状況になってもアビスパが頭の中から完全に離れることはない。」とコメントをしていたほどにだ。それらの気持ちを行動で示すように、惇は2018年の後半戦からキャプテンに就任。2019年も務めた。
ただ、キャプテンということでもしかすると、周りのことを考え過ぎてしまったのかもしれない。
2019シーズンはチーム全体が極めて低調だったとはいえ、惇のパフォーマンスも良くなかった。
さらに今シーズン、ボランチに守備の強度と球離れの良さを求める長谷部監督のサッカーに合わせられず。前と重廣・松本という新加入選手にポジションを奪われ、19試合の出場に留まり契約満了に。
それでも、長谷部監督はちゃんと花道を用意していた。アビスパで最後の出場となったのは、今季最終節のホーム・徳島戦。
1-0とリードして迎えた84分、長年ともにアビスパを支えてきた城後と共にピッチに投入される。
偶然とは思えないその光景に胸が熱くなり、FKを蹴る際には今季のキャプテン・前寛之が寄ってきてキャプテンマークを惇に渡す。そしてそれをサロモンソンが付けてあげる姿に、グッとくるものがあった。
鈴木惇のこれから
アビスパを離れることにはなってしまったが、これは惇にとってチャンスでもあると感じている。
これまではアビスパのこと、チームのことを常に1番に考えながらプレーしていたが、次のチームではこれまでより自分のことを考えられる。むしろ、惇の場合はその方が良いプレーを出せるように思う。
「プレースキックはもちろん、動きながらのパスも一級品。J1でもトップクラスだと思う。」とは盟友・城後による2016年の惇の評価だが、彼の武器は今も全く錆びついていない。左足から放たれる中・長距離のパスの精度は抜群で、直接FKでは何度スタンドを沸かせたことだろう。今季も、第3節に先制点となるゴールを決めている。
トライアウトに参加していたことをみるに来季の所属先は決まっていない可能性もあるが、是非とも早めに所属先が決まることを願っている。そして、アビスパが契約を満了したことを後悔するほどの活躍をみせてほしい。
それが可能なことは、自らの実績が示している。
紆余曲折ありながらもどの監督からも起用され続けてきたからこその406もの出場数だ。自らのスタイルと合致するチームであればきっと活躍できる。
アビスパ福岡のいちサポーターとして惇へこれまでの感謝を示すとともに、今後への期待を書かせてもらった。改めてお礼を述べて、この記事を締めようと思う。
約20年間もの間、アビスパでプレーしてくださり、本当にありがとうございました。
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