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キングオブ北九州、池元友樹

はじめに

今回の記事は私にとって大きなチャレンジ。
「アマチュアサッカーライター」といういかにも胡散臭い肩書きでアビスパにまつわる記事を書いてきたがしかし、より根本の部分ではサッカーそのものが大好きな人間だ。

アビスパサポーターとして括られてしまい、他クラブのサポーターに受け入れられないかもしれないと悩んだが、ただのアマチュア。他のチームであっても好きな選手については積極的に書こうと思い、最初にこの選手を選ばせてもらった。


今季限りでの引退を発表した、「キングオブ北九州」。
池元友樹、35歳。

独特なリズムのドリブルと左足の強烈なシュートを持ち、記憶に残るゴールが多い彼の、挑戦を続けたサッカー人生を纏める。

池元友樹が北九州でプレーするまで

北九州市出身の池元は中井サッカー少年団でサッカーを始め思永中学校でプレーを続けたが、名を上げたのは東福岡高校時代だろう。
左SHとして2、3年時に全国高等学校サッカー選手権大会に出場し得点も奪うなど活躍をみせた。

しかしプロ入りを目指していた池元に、Jクラブからのオファーはなかった。
そこで池元が選んだのは、大学進学などではなく茨の道。高校卒業後、単身アルゼンチンに渡り名門・CAリーベル・プレートに練習生(5軍)として入団する。
言葉も通じず、日本に帰りたいとも思ったが、サッカーへの情熱で乗り越え4軍のアマチュアカテゴリーまで昇格。
ベリンツォーナ国際ユース大会で平山相太らを擁する日本高校選抜との試合にも出場し、チームはこの大会で優勝を果たした。
ここで評価を上げたのであろう、U-19日本代表にも選出され親善試合で得点も挙げている。

しかしリーベルとのプロ契約には至らず、東京Vと大分が興味を示したようだがこちらとも契約には至らず。
練習生として清水でもプレーしたがこれもオファーには繋がらなかった。

北九州との出会い

プレーする場が見つからず、公園でボールを蹴ることもあった池元に声をかけたのが、ニューウェーブ北九州(ギラヴァンツ北九州の前身・当時九州リーグ)だった。
2005年6月にクラブが入団を発表すると、日本でも知られた名門・リーベル・プレート、U-19日本代表でもプレーした池元が九州リーグでのプレーを選択したことに驚きの声も上がった。
が、出身地のクラブを上の舞台へ連れて行くという目標も池元にとって大きなチャレンジだったのだろう。

池元は見事なまでに結果を残す。2005年にリーグ得点王に輝くなど、2005、2006年の2年間で26試合出場、27得点と圧倒的な活躍をみせたのだ。
しかしチームは、全国地域リーグ決勝大会への出場を逃してしまう。
ここに目を付けたのがこの大会へ出場するFC岐阜。JFLへのラストピースとして短期の期限付き移籍で獲得すると、池元は6試合7ゴールと完璧に期待に応え、準優勝でのJFL昇格を達成してみせた。

Jリーグへの挑戦

これらの活躍が認められ、2007年にはついにJリーグのクラブ、それもJ1の柏レイソルからオファーが舞い込む。恋い焦がれた舞台での活躍を期して、池元は移籍を決断。4部から1部へという飛び級で注目を集めたが、J1の壁は厚くリーグ戦への出場は1試合のみ。

翌年、都並敏史監督率いる、J2の横浜FCへ期限付き移籍。5月18日、アビスパとの一戦でJリーグ初ゴールを決めるなど、リーグ戦で7得点を記録する。

横浜FCからこの活躍が認められ、2009年も期限付き移籍を延長。背番号9も背負ったが、しかし怪我もあって4得点に留まってしまう。

それでも懸命に一定以上の活躍をみせていると、良いことがある。

北九州との再開

2010年、再び北九州との縁が生まれたのだ。念願のJ2昇格を達成し、ニューウェーブ北九州からギラヴァンツ北九州へと名前の変わったクラブからのオファーを受け、期限付き移籍。ここでも背番号9を背負った。ただ、予算的にも戦力的にも明らかに足りていなかったチームはシーズンで1勝しか挙げられず、池元も2得点に終わる。

それでも2011年も期限付き移籍を延長し北九州でのプレーを選ぶと、ついにJの舞台で地元への恩返しとなる活躍をみせる。この年圧倒的な強さでJ1復帰を果たすことになる、FC東京との一戦で決勝ゴールを奪うなど10得点。Jリーグの舞台での初の年間二桁得点を達成した。

この活躍もあり、翌2012年には北九州へ完全移籍。
北九州を福岡ダービー初勝利へと導くゴールなど7得点を挙げた。
2013年も7得点と安定した活躍をみせると、2014年には15得点を奪ってみせJ2得点ランキングで6位にランクイン。クラブがJ1ライセンスを持たなかったために出場はできなかったが、チームもプレーオフ圏内の5位と躍進を遂げた。

2度目のJ1挑戦と、その後

北九州で、完全にエースストライカーとして君臨していた池元。
それでも彼はチャレンジをやめない。あの頃から成長を遂げた自分が、J1でどれだけやれるか試したかったのだろう。J1へ昇格した松本山雅からオファーが届くと、移籍の道を選んだ。
そして2015年3月7日、開幕戦。名古屋との試合に出場すると、一時は勝ち越しとなるゴールを決める。これがプロ13年目での、念願のJ1初ゴールとなった。
ただその後は下降線を辿り、8試合出場1ゴールという成績で終わる。

2016年、再び北九州へ復帰。翌年にはミクニワールドスタジアムがオープン予定と期待に溢れたシーズンだったが、まさかの低迷。J3への降格という憂き目にあってしまう。

それでも池元は北九州に残留し、チームをJ2へと引っ張るべく翌年キャプテンに就任。その姿勢を結果でも示し、キャリアハイとなる16得点を決めたがチームは9位に終わった。
2018年もチーム得点王となるも5得点にとどまり、昇格を目指したチームはまさかのJ3最下位。
北九州のサポーターの辛さは想像に難くないが、その中で池元という存在は大きな支えだった。

2019年、昇格請負人として名高い小林伸二氏を新監督として招聘したことで状況は一変する。
池元はチーム唯一の全試合に出場して7ゴールを決め、チームのJ3優勝、J2昇格に大きく貢献した。

今季も第11節の金沢戦でゴールを決めていたが、自らの意識とプレーが噛み合わなくなったこともあり引退を決意。12月14日、クラブから今季限りでの引退が発表された。

北九州で積み重ねたもの

最終的に、北九州にはニューウェーブ時代も含めると計12年間在籍。ニューウェーブ北九州を知る最後の選手として、北九州で公式戦通算100ゴール以上を決めるなど名実ともに北九州の象徴となった。

16日のホーム最終戦後に行われた、引退セレモニーの映像もフルに観させて頂いた。
決して口が達者なわけではないが、誠実に言葉を紡ぐ池元の姿、そして精一杯の手拍子で池元への感謝を伝えるサポーターの姿が非常に印象的で、感動を覚える素敵なものであった。

チャレンジし続け、様々な地を渡り歩いた池元友樹。
そんな彼が最終的に選んだ土地は地元・北九州だった。

最後に、2012年に北九州の監督を務めた三浦泰年氏の当時のコメントを載せる。
「彼は、この街の宝だ。」

北九州に家を建て定住の地とした彼は、これまでもこれからも、北九州の宝であり続ける。


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