【随想】ガイドライン行政への違和感#2−「違法性判断基準」として受け止められるガイドライン(2/5)

 行政庁が考えるところの法令解釈を示し、その意味で単なる「指針」ないし「考え方」の域を出なかったガイドラインが、ある種の変調をきたすのは、ガイドライン行政が定着する九〇年代後半のことである。ガイドラインの内容が精緻さを増し、行政庁がいかなる要素を考慮し、いかなるロジックで法的判断を行うか、ガイドラインでは、まさにこの「考え方」が丁寧に説明されていくようになる。
 ちょうどこのころ、規制緩和のながれとともに、特殊領域における多くの規制が取り外され、一般的なルールとしての独占禁止法に期待と注目が集まっていたところであった。しかし、独占禁止法の多くの規定は、実際に現れた弊害がどの程度深刻なものかを実質的に評価をして法の適用がなされるもので、条文の形式的な部分だけを見ても判断できない場合が多い。規制を受ける側からすれば、何をすれば違法で何をすれば適法なのか、予め知りたいところである。ガイドラインは、まさにこうした規制を受ける者にとって予見可能性を高めるものとして重視されていく。
 もちろん、問題もある。たしかに内容が精緻になればなるほど、予見可能性は高まる。だが、それがロジックや説明の域を超えて、法適用の条件を示すものであると解されるようになると、それは法適用の要件となり、結果として、行政庁を法律に書かれている事柄以上に制限・拘束することとなる。つまり、経済実態に沿った柔軟な対応を難しくしてしまう。
 ガイドラインにおいて見られる近時の顕著な傾向は、単なる「指針」・「考え方」に過ぎなかったガイドラインが、その精緻化を加える毎に、違法性の判断基準として受け止められるようになったということである。特に数値が示すインパクトは大きい。「○○%のシェアを超えると危ない」とあたかも、シェアが禁止規定の要件にでもなったかのようである。
 いったん、行政庁がガイドラインを出すと、この内容の当不当をわが国では司法の場で争うことはほとんどない。つまり、司法のレビューがないことが、行政庁のガイドラインが「違法性判断基準」となる傾向を助長しているのである(2017年8月5日記)。

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