見出し画像

【作品と私】小鹿田焼の里を訪ねて

 2024年4月、世田谷美術館で開催されていた『民藝——美は暮らしのなかにある』展に足を運んだ時、展覧会の終盤で"現代における民藝"として紹介されていた地域民藝の数々の内、一際心を惹かれたのが、大分県日田市で作陶されている「小鹿田焼(おんたやき)」だった。派手な装飾や、特徴的な色遣いは無い。ただ淡々と、食卓の上で食品を盛るためだけに存在するような佇まいでありながら、それでいて細やかな意匠と柔和な温もりを感じさせるその器の製作は、なんと今でも、一子相伝で受け継がれていると言う。大量生産、コスパ重視の時代にありながら、三百年以上続く「手間」の伝統を細く永く続けていく覚悟。自然環境の猖獗に翻弄されながらも、僅かな人力でそれに対抗、あるいはそうした周囲の変化との共生を信じることでしか生み出すことのできない、美の奇跡。展覧会で紹介されていたそれら一つ一つの要素に心を奪われ、僕はいつか、その美しい器が製作されている土地に足を運びたい、という思いを抑え切れなくなっていた。


 今年の夏、盆の休みを利用して大分県を旅することになった。温泉に浸かって日々の労働に疲れた身体を癒したい、という単純な思いつきや、その他諸々の旅の目的もあったが、主眼に据えていたのは、小鹿田焼が製作されている里を訪ねたい、という希望だった。ちょうど南海トラフ地震臨時情報が気象庁から発表され、こうしたタイミングで旅に出ることへの不安ももちろんあったが、それでもこうして遠距離の土地へと旅をする機会は数少ないし、日本で暮らす限り、こうした災害の恐怖からは常日頃も逃れることはできない。来たるべき未曾有の災害への備えはもちろん必要だが、同じように今、この瞬間の心の赴きに身を委ねることも大切にしたい。そうした思いから、旅に出る決意を固めた。幸い、旅中に災害に見舞われることは無かった。

 大分県に辿り着いた初日から、駅でレンタカーを借り、四方を山林に囲まれる高速道路を走って日田市の北部にある「小鹿田焼の里」に向かった。大分県は大分市、別府市、豊後高田市といった一部の地域を除き、県内全域に九州山地の山並みが広がっている。都市部で暮らしていると忘れがちになってしまうが、人間は決して自然環境を「生かしている」のではなく、自然環境に「生かされている」。あるいはそうした辻褄を超えて、生の意義など考える間も無いほど厳然とした自然が、我々の周囲には太古から存在し続けている。人として生きる上でのこうした当たり前は、肥沃な土地で暮らす人々にとっては、単純な旅行者として足を運んだ自分とは全く異なる次元で、臓腑に沈澱するように感得されていることなのだろう。自分には想像もできない、土地で暮らす人々の精神に背伸びをするようにして思いを馳せながら、車を走らせた。空はこれ以上無いほど青く、澄み渡っていた。

 「小鹿田焼の里」に辿り着いたのは、夕刻に差し掛かった時間帯だった。

国指定重要無形文化財「小鹿田焼の里」

 盆のシーズンということもあってか、ちらほらと旅行者の姿もあったが、まず驚いたのが周囲の圧倒的な静けさだった。早く窯元を回りたい、と急く気持ちを抑えながら、陶芸館のある高台の駐車場から里を見下ろし、土地に流れる風の音に耳を澄ませてみると、明朗な人声が周囲の日田杉に吸い取られるような、あるいは自然と人間の営みが渾然一体となって差し迫るような、「沈黙の音」が、確かにそこには流れていた。
 静けさが鳴る、という、言葉にすれば矛盾となるようなその音は、都市部では決して聴取することができない。それは「土地と共に生きる」という覚悟を持った人たちが、大切に守り繋いできた伝統の賜物かもしれない。そうした普段の生活では耳にしない優しい音色に身を委ねながら、人家の方へと歩を進めると、谷川の流水の音と混じってドタン、ドタン、と規則的な音が聞こえてくる。これが小鹿田焼の製作に欠かせない、「唐臼」の音だ。

小鹿田焼の原土を粉砕する「唐臼」

 永続的に流れ続ける谷川の水流を曳き、木枠に溜め込んだ流水の力を梃子の原理で利用して原土を粉砕する「唐臼」。一目見るだけでその仕組みと、設計の緻密さが看取できるその装置は、今も機械で代用することなく利用され続けている。正月を除き年中、日がな動き続けているというその唐臼の音は、ちょうど自然と人間の狭間を指し示すような象徴として、里の沈黙の音に溶け込み、決して耳障りで無い、心地の良い音を体現しながら鳴り響き続けていた。

 そうした、普段の生活では出会うことの無い自然と人間の共生の姿に心を揺さぶられながら歩を進めていくと、かつて見たことが無いほど大きな「登り窯」のある場所に行き着いた。

共同利用されている「登り窯」

 「登り窯」は、陶器を大量に焼成するために必要不可欠な窯で、地域の幾つかの窯元で共同利用をしているらしい。煉瓦を積んだ頑丈な窯は、土地の傾斜を利用して奥まで続き、聳える煙突も含めて壮大な景観を成していた。窯の内部に残る焦げ跡からは、受け継いできた伝承の歴史が滲んでいるようだった。

 いつまでもこの場所で、長い伝統の蓄積と自然との共生によって成り立つ美しい景観と、静けさの音色の中に浸っていたい、という願望とは裏腹に、気付けば日暮れが近くなり、レンタカーの返却期限が差し迫っていた。急いで窯元に行き、美しい色合いの薬味入れの陶器を一点購入した。窯元の人達とゆっくりと、この土地の歴史や陶器の製作について話をすることは叶わなかったが、それでも購入する際の一言二言や、陶芸館の方との少ない会話の中だけでも、この土地を守り続ける人達の苦労や、優しさの断片が節々に感じられた。名残惜しい気持ちもありながら駐車場に戻り、高台で大きく息を吸い込むと、美しい景観と手に下げた陶器に触発された様々な思いで、文字通り胸がいっぱいになった。


 日本の民藝運動の主唱者・柳宗悦は、無名の作陶家たちによって生み出される日用雑器の中にこそ、「用と美」の至高の美しさが宿る、と説いた。機械化され、大量生産された物に溢れた現代だが、一つ一つの手作業によって製作された物や、それらが製作される土地の風土に実際に触れることを通して感受できる「美」は、強靭で、温かい。そうした美の力を生み出すのは、他でも無く、その土地に暮らす人々の思い、受け継いできた歴史の蓄積だ。

 旅から戻り、自宅に帰ってからも、里で得た感慨の余波に背突かれるようにして、以前の民藝展の図録や、小鹿田焼に関するインタビュー記事の幾つかを読み進めた。そうした中で度々目にしたのが、小鹿田焼の作陶家たちが口々に話す、決して前向きとは思えないような言葉だった。「仕方なくやらざるを得なかった」。「いかに、作ることを無理やり好きになるかが問題だ」──。

 先に書いたように、小鹿田焼の技術は、一子相伝で受け継がれている。つまり、小鹿田焼の窯元に生まれた子供たちは、生まれ落ちた瞬間から将来何をするか、予め決められた生を生きている。別に小鹿田焼に限ったことでは無く、そうした「家業を受け継ぐ」というあり方は世界中にありふれているが、それでも僕のような人間にとっては、そうした生のあり方が自分とは遠く隔たったもののように感じられる。自分はどこに行っても、何をしても良い。何かを作らなくても良いし、何かを作っても良い。当たり前のように考えていた自分のそうした生活は、実は一部の人にとっては、全く当たり前のことでは無かった。

 何かを作りたい、という欲求──創作意欲のエンジンを、半ば無理やり自分の中で駆動させ、物を作る。決められた環境の中で、自然災害に翻弄されながらも伝統を守り継いでいく。それは、並大抵の努力や信念で果たすことができる業ではないはずだ。現に昨年、小鹿田焼の里は北部九州の記録的な豪雨により深刻な被害を受け、一時廃業の危機にまで追い込まれたらしい。燃料となる薪は土石流で流され、必要不可欠な唐臼も失った。それでも今、自然環境との共生を信じ、他ならぬ自分達の手で復旧された里の姿が、そこにはあった。

 傷つけられながらも修復を繰り返し、地域の人々で互いに手を取り合いながら、苦難を乗り越えていく。それでも手の届かない部分は、やはり外部の人間や行政が、その思いを無碍にすることなく加担していくしか方法が無いだろう。それは、ちょうど地震情報が発表されている今だからこそ、僕の胸に何か特別な意味を持って差し迫ってきた。そうして今回、実際に小鹿田焼の里に行き、その類稀な環境や焼き物の至高の美しさに触れて、自分自身にも何かできることが無いか──いや、決してそんな崇高な思いではなく、単純に自分の感じた美を誰かに共有したい、という思いの一心で、この文章を書いた。

購入した小鹿田焼の薬味入れ

 手作業によって作られた、「用の美」の素晴らしさ。僕はこれからも、民藝の手によって作られた美しい器を使って、飯を食いたい。飯を食うことは、他ならず「生きること」だ。
 生活の中に宿る美に目を向けることは、肉体だけに留まらず、僕たち人間の生の根幹にある「精神」をも、強靭な温かさで満たしてくれる。

 また、あの美しい小鹿田焼の里に足を運びたい。

【参考文献】
『民藝 MINGEI ― 美は暮らしのなかにある展図録』(2023年)
『民藝とは何か』柳宗悦著(講談社・2006年)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?