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制作する事、自己との対話

今日は好きな先生が個展をしている会場から遠隔で作品紹介をする授業があった。

先生は細々とした猫やタコなど可愛らしいモチーフを散らばせたシルクスクリーンの作品を作っている。基本の作品は背景色と、黒線で描かれた猫などのモチーフと、ベタ面で表された道具などのモチーフの三版に分かれていて、それを意図せずに重ね合わせる方法をとっている。
その出来上がった画は、無意識に組み合わさったものだがなにか物語が作り出されていて、今回はそこに注目してみることを展覧会のコンセプトにしているらしい。

細かいモチーフ達が別のモチーフと重なってうわっと広がった様子を切り取って見てみると、モチーフが頭にゴツンと当たってる猫がいたり、中には偶然にも(不運にも)首から紐がつられてるように見える猫がいたりする。それを作者自身も新しい発見を楽しめる作品となっている。
私はそれを聞いて、もちろんギャラリーで鑑賞するのも楽しそうだけど、出来るならもっと近くでじっくりと時間をもってたのしめたらなぁと思ってしまう。先生の作品を家に飾れたらどんなにいいだろう!と常々思っている。

作品をじっくり見ていると、猫やタコのなんとも言えない無表情さについ笑みが溢れてしまう。可愛いけど何かネガティブな雰囲気が漂っている気がする。例えば何かを吐き出していたり、物陰から顔をひょっこり出していたりする猫を見て、それが不意を突かれてすごく愛しく感じる。それもこの作品の魅力だ。

描かれたモチーフを見るとなんだかすごく先生らしさを感じてしまう。ゆるくて、ふわふわとしていて、本当にありのままだなぁと思ってしまうのだ。これはあくまで主観なので、そう見える事と作者の意図とのギャップがあったら嫌なのであまり伝えられないと思うのだが...

受け手と作り手のギャップについて丁重に扱わなければならないと思うのは、先生はよく「楽しんで作っているなぁ」と鑑賞者に言われるそうだが、実際のところ苦しみながら作っているということを聞いたからだ。
先生はやはり作品を生むことに対して苦労されている。一番楽しいことはアイデアを思いついた時だけであとの作業は地道なものだ、と言っていた。鑑賞者が楽しいとか可愛いとか思う気持ちとは裏腹に製作側の手作業は作業でしかなくて、特に小さなものをコツコツ描いていくのは先が見えない果てしない工程なんだろうなと思うとゾッとした。
「朝、寒い時に制作のために出かけなくちゃならないのは本当に嫌ですよ」と言っていたので私は先生のお茶目さにほっこりした。

先生の描くモチーフは本当に先生の生活に関わるもので、例えばマクドナルドに行ったらその時の周りのものや、あとは暮らしに欠かせないトイレットペーパーやマスクなんかも描いている。しかし、今マスクというとコロナなど時事ネタに絡んできて意味をもってしまう。だからこそ今は作品にマスクを入れないようにしていると話していた。

私はそこから先生の制作のスタンスが自分のものと根本的に違うとはっきりわかった。私は自分の作る作品には常に意味がないと価値を見出せなくて、この技法をどう作品の意図に結びつけるかばっかりかんがえている。しかし、先生は純粋な画の面白さをメインに置いて制作をしている。

たしかに伝えたいものがはっきりとある作品は美術館などで、自分で作者の意図を汲み取ることが好きな客にとって、胸を打たれる作品になる場合もある。しかし、それと飾りたいかどうかは全く別問題である。むしろその強い主張が作品として暑苦しく感じて部屋に置くのさえ嫌になることもある。
その点、意味をしっかりと持たない作品は画の良さで心をうきうきとさせ、飾りたいと思えるものが多い気がする。これはやはり意味に捉われないことで、画の自由さがあり、ビジュアルの良さに振り切れることが理由にあるのではないかと思う。

絵には作者の意図とは離れて、心を和ませる力や、気持ちを明るくさせる効果を持っている。制作をしている立場になると、意味を追い求めて、今の情勢を揶揄する作品や、思わず顔を背けてしまうような作品を作ってしまう。しかし、それだけが美術の立ち位置として正しいわけではないと思う。

先生は一度も鑑賞者に対して媚びることはなかった。常に自分自身との対話で制作を行っている。自分が面白いと思うものに着目して、試行錯誤している。しかも、これほど完成された作品なのに先生はもっと垢抜けさせたいと言っていたので、なんで向上心なんだろうと驚いた。

私は誰に向かって作品制作をしているんだろうと辺りを見回してしまう。でも私は私のために歩を進めていくしかないのだ。私が見たいものを、私が楽しみたいものを作る。それは他の作家達の美術の在り方に惑わされる必要はない。先生自身の作品に対する取り組みを見て、そう思えた。



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