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縁起に肖るべきか


 3月31日,知人のストーリーは,一粒万倍日や天赦日,寅の日だからという理由に託けて,財布やバッグの購入品で溢れていた.
どうやらとんでもなく縁起の良い日らしい.

ストーリーに目を通し,新社会人となる友人の話に耳を傾けつつ,来たる新年度に対し何かしら行動を起こそうと,地元の自習室を借りてみることにした.弟が使っていた自習室である.彼はこの自習室を活用し,大学受験に成功した.
私は“縁起”を気にする側の人間であるのか?

 占いや言い伝えの類いのものは信じない(そういうタイプでありたいと自身を縛っている)し,気にも留めていなかったけれど,『この吉日に何か決定し,新しい事を始めよう』と書かれた記事に目を通し,まずは弟の内定祝いの鮨屋を予約した後で,最近は殆どただの板と化していたMacBookの充電を入れ,文章を作ることをはじめた.

 なんでまた文章に拘るのか,きっと母の影響が大きいと思う.
母は本を読むことが好きな人間で,彼女は実家に帰れば,まず仏壇に手を合わせ,次に祖父が定期購読している文藝春秋に目を通す.もう使われていない母の部屋には,埃を纏った本が積んである.そこから何冊かを私の鞄に入れ,私の本棚には本が増える.
毎週土曜日には図書館に連れられ,何冊か本を借り,それを読む.私の幼少期の思い出には必ず本が隣り合わせで存在していた.
 母は多少厳しい人間で,私を褒めることはあまり無かったけれど,私が作文や絵のコンクールで入賞することをとても喜んでいた.それなりに子どもとしての役割を弁えていた私は,特に作文に注力していた.何度か表彰され,その度に母は私の作文のコピーをとり,それを祖父に送っていた.(親に称えられたいというのは子どものサガなのか)
祖父からの返事は必ず図書カードであり,それを握りしめてまた本を買いに行く,誰かの文章を吸収し,また作文に手を付ける,そんな学童期であった.

 いつの間にか,『文章で褒められたい』という気持ちが,『書くことそのものが好きである』と自負するようにスイッチされていったし,学校のレポートも結構楽しんで書けている.
高校生の時から憧れ続けていた仕事はライターで,英語の勉強というフェイクで見漁っていたNetflixは大抵,主人公がライターである.(Sex and the Cityとかね)

 私は今大人に向かっていて(少なくともティーンではなくなった),何もかも自分で選択しなければいけない年齢に到達した.作文で褒められウキウキで学校から帰る道,あの時の感情を美化しつつほんのり思い出しながら,原稿用紙からワードに変えて,また文章を練っている.
1年前購入したガジュマルを眺めながら.
どこかで,“観葉植物は縁起の良いもの”って聞いた気がするしね!


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