【フュリオサ】よりも【怒りのデス・ロード】の方が好き

前作「怒りのデス・ロード」を初めて見たのはレンタルのブルーレイだった。「これは映画館で見るべき映画だった…」と後悔して、リバイバル上映を探して映画館までわざわざ見に行った。

今回は見逃したくないと思い、先週「マッド・マックス:フュリオサ」見てきた。面白かった。面白かったのだが。満足するべき内容だったのだが。スターウォーズEP7を見た時のような気分。こちらが期待しているものを提供してくれたから満足するべきなのだが、前作(今までの作品)までの良い設定をこねくり回しているだけなのでは。

砂漠にバイク、火炎放射に爆発。私がこのシリーズに期待しているものをてんこ盛りで見せてくれているのに。画ヅラ、色合いが変わらないからちょっと食傷気味になった。

上映時間は148分。長い映画だが終わる直前までは飽きずに見れた。フュリオサがディメンタスを捕らえてからの問答は、監督にとっては大事な場面なのだろうけれど、私は関心が続かなかった。例えフィクションの物語だとしても、復讐のために生きている彼女が気の毒に感じた。この映画自体が復讐劇なのだから、そもそもこの映画のテーマ自体が私に合っていないと思った。

私も彼女と同じ経験をしたら復讐のために生きるのだろうか。ディメンタスの元でも、イモータン・ジョーの元でもその恨みを隠しながら、復讐ができる条件が整うのを何年間も待っていたのだろうか。想像するだけで気が遠くなる。だからこそ偉大なのだろう。アンディ・デュフレーンが脱獄した時にはスカッとしたのに、ディメンタスを殺した時はスカッとしなかった。私は「人を呪わば穴二つ」をどこか信じているから、復讐に燃えるフュリオサにそこまで感情移入できなかった。恨みが深すぎて、楽しめなかった。

地上波で放送していた日本語吹替版「怒りのデス・ロード」を録画していたので、「冒頭の30分だけ見て寝るか」と見始めた。結局、一晩で最後まで見てしまった。面白かった。食傷気味と言ったくせに、最後の最後まで楽しめた。「フュリオサ」との違いはマックスの存在だと思う。

「俺を待つな」と言い、足止めのために一人で闇の向こうに消えていく。ぶっきらぼうだけれど、スプレンディドが車から落ちていないと分かると控えめに👍。他人に関心のないようだが、砦に戻ろうと提案。この時代には死語かもしれないが、まさに男らしい。最後に姿を眩ましてしまうところも一貫している。

余計なこと言わないで、人に頼らずにやることだけやる。それが人のためになっている。見返りは求めない。そういう人に私もなりたい。

乳首が吹っ飛んだ場面について

ディメンタスの乳首が吹っ飛ぶ場面は、状況を理解するのに少し時間がかかった。だって敵陣の本丸に乗り込んで、自分で乳首にあんな仕掛けをするボスがいるとは思わないでしょ。理解してからめっちゃ笑った。乳首が吹っ飛んでからの会話でも、いちいち血が流れる乳首が見切れるからたまらなかった。

ディメンタスがその後もあの調子でイカれた行動をしてくれるのを期待したのに、あの場面くらいしか笑えなかった。そうなると、あの場面が異様だと感じる。なぜディメンタスにコメディ要素を含ませたのか。フュリオサが彼を恨んでいるのが馬鹿馬鹿しく映ってしまわないか?

もしかしたら、恨みを持つことは馬鹿馬鹿しいということを伝えたかったのか(私の思い込みだろうが)。ディメンタスがフュリオサの母親のことを覚えていなかったように、恨みを持たれている人は自分がひどいことをしたという自覚がなく、覚えていない傾向にあると思う。だからこそ、馬鹿馬鹿しいから恨みなど持たずに生きていくのが正解だと私は思う。だけど、それは私が生きている現代社会で起き得る恨みの話であってね。母親を磔にされたら、自分だってどうなるか分からない。










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