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山手の家【第56話】

家を留守にするのは気が引けた。
盗聴器をつけた犯人が信子なら、合鍵を使って家に入る可能性がある。
(でも、真珠に会いたい)
瑠璃は裁縫箱から黒い糸を取り出すと、玄関の扉の前にしゃがんで、自分のくるぶしの高さに1本、膝の高さに1本、糸を張った。
これで家への侵入を撃退できるわけではないのは、わかっている。
相手がかえって逆上するかもしれないことも、わかっている。
ただ、『おとなしくやられっぱなしでいる』という発想が瑠璃にはなかった。
(家に入る時に自分で引っかからないように気をつけよう)
瑠璃は自分が張った糸をまたいで共用の廊下に出ると、玄関扉をロックした。



「アレルギーですか」
真珠の体調不良の原因が、『何かしらのアレルギー物質によるものだろう』と聞かされて、瑠璃はどう考えても思い当たるものがなくて、瞬きを繰り返した。
「だいぶ回復したので、退院に向けてカンファレンスを開きましょう。その時に詳しく説明します」
主治医は真珠の頭を撫でながら、目を細めた。
「日程のご相談が担当看護師からあると思うので、よろしくお願いします」
主治医がベッドサイドを離れるか離れないかのタイミングでスマホが鳴った。
知らない固定電話の番号が表示されている。
電話に出るか出ないか一瞬迷ったものの、出た方が良いような気がしてスマホを耳にあてた。
「小川真さんの奥様の携帯電話でよろしいでしょうか」
どこかで聞いたことのある、低い、男性の声が流れた。
「はい」
「私、小川さんと同じ部署の竹中と申します」
竹中という名前を聞いて、はっとした。
「あぁ、竹中さんですね。主人がお世話になっています」
真が在宅勤務でオンラインミーティングをしている時に、イヤホンから同じ男性の声が漏れることがあった。真が「声の大きい竹中さん」と呼んでいた、その人だ。
瑠璃はスマホを耳に充てたまま、病棟を出た先にある休憩室に走った。
「先ほど、社内で小川さんが倒れてしまいまして」
「主人が?」
ここのところずっと咳をし続けていた真の姿が頭の片隅に浮かんだ。
「今、救急車で会社の近くの総合病院に搬送しているところです」
竹中の大きな声に気を取られていたが、確かに、サイレンの音がかすかに聞こえる。
竹中が搬送される真に付き添っているのだろう。
「あの、主人はどんな……」
「受け答えできる状態ですが、倒れた時に頭を打ったかもしれないので、念のため救急車を呼びました」
頭を打ったかも、と聞いて、瑠璃は胸の奥がざわざわした。
「搬送先をお伝えしたいので、今、お手元にメモなどがあれば」
部屋の中を素早く見回すと、『アンケートにご協力ください』と張り紙がしてある下に、ペンを見つけた。
駆け寄って、アンケート用紙をひっくり返す。ペンを取りながら「お願いします」と、伝えると、竹中は瑠璃が聞き取りやすいように配慮してか、ゆっくりとしたテンポで病院名を口にした。
瑠璃はお礼を伝えると、病院名を書き殴ったメモとスマホを握りしめて、急いで真珠の元に戻った。
真珠と目が合った。瑠璃は、ベッドの柵の間に腕を通して、真珠の手を握った。
「真珠、ごめんね。パパ、具合悪くて大変みたいだから、ママちょっと行ってくるね」
真珠の口がゆっくりと開いた。
「君は誰とでも仲良くなれるし、頼もしい子だから、ここのみんなと一緒に待ってて」
瑠璃はもう片方の腕も柵の間に通して、真珠の頭を撫でた。
「明日もまた、来るからね」
真珠と離れ離れになるのはイヤだが、真の元に行かなくては。















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