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山手の家【第59話】


険しく歪んだ信子の顔が、急に菩薩のように穏やかになった。
「マコちゃんはいいところにお勤めだから、あなた何もしなくて良くて、楽でしょうがないでしょう?」
「子育てと2人分の介護で働きたくても働けません」
瑠璃は淡々と答えた。
「うらやましいわぁ。私も、そんなお嫁さんになるはずだったのに」
信子の耳には何も聞こえていないようだった。
(なんで、うらやましいわけ?)
今、真と離婚したら、生活能力がないと判断されて真珠を取り上げられてしまうかもしれない。
そんな弱い立場なのに、どうしてうらやましいのだろう。
これまでにも信子の考えていることが理解できないというのは多々あった。
やはり、信子とは気が合わないのだ。瑠璃は納得した。
「母さんの言う通りに大将と結婚したけど、幸せになれなかった」
信子の目から溢れ出した涙が頬をつたっていく。
「大将は、子供は自然に任せると言った」
信子は上を見上げて、両方の目頭を押さえた。
「母さんは子供を授からない私を、娘でもなんでもないと言った」
瑠璃は息を飲んで、信子の動きを注視した。頭の中に「姉さんから何か言われても、あんたたちは構わなくていいから」と、義人の声が響いた。
「なんで言う通りにしてただけなのに、幸せになれないのよぉ」
信子が泣き叫びながら、瑠璃に迫ってきた。
瑠璃は掴みかかろうとしてきた信子をひらりとかわした。
全力をぶつけようとした相手が目の前から急に消えて、信子は支えるものを失って床に腹ばいになって倒れた。
「自分の人生、他人任せにしてるからでしょっ! 甘ったれんな!」
「……頭に来た」
信子がのろのろと立ち上がった。
「ルリさんが私の言うことをおとなしく聞くようなら、大目に見てやろうと思ったけど、気が変わったわ」
「よく言うよ。口からでまかせばっかりのくせに。何? 私も真さんも、なんなら真珠も、この世から消すつもり?」
腕を組んで「バカバカしい」と、吐き捨てると、信子が頬をひきつらせた。
「いいえ。真珠ちゃんは私が育てるわ」
「はぁ? 夢なら寝てから言え、って」
瑠璃がまくし立てると、一瞬ひるんだ信子が声を震わせて「やり直すの。人生を。彼と一緒に」と、つぶやいた。
「カレ?」
「ケイちゃん、ケイちゃぁん」
信子が玄関の方に向かって甘えるように誰かを呼んだ。が、誰かが現れる気配はなく、静寂が通り過ぎていった。
瑠璃は思わず、ふき出した。
「妄想彼氏? 信子さん、乙女だなぁ」
呆然としていた信子が、悔しそうに瑠璃を見つめた。
「私が大将になんて言われたか、わかる?」
「そんなの知るわけないでしょ」
「『真がうらやましい。あいつはオレが持っていない学もあるし、賢い嫁さんもいる』ですって」
信子の両手は固く握られて、かすかに震えていた。
「お前は計算ができないって、大将に何度なじられたことか……」
(だから、太一さんに毒を盛った、ってこと? 病気で弱ってた太一さんにそんなことするなんて)
晩年は認知症を患っていたという信子の母、真の祖母である節子にも、仕返しのつもりで毒を盛ったのだろうか。
瑠璃は身勝手だと信子を心の中で激しく軽蔑した。
急に何かを思い出したように、信子が笑顔になった。
「マコちゃんの遺産も保険金も、何なら小川家のお金も全部、いずれ真珠ちゃんに入るでしょう? お金には困らないわ」
「あんたみたいな散財ババア、半年も持たずに野垂れ死ぬに決まってる」
「今、何て言った? 目上の者に、舅の姉に何て言った?」
「極めて可能性の高いことを言っただけです」
大股で迫ってくる信子をかわす。
「あんたに真珠は渡さない」
引っ込めようとした足に、信子の足が引っかかった。
視界の端で、信子が床に倒れ込もうとしている様子がスローモーションのように見えたが、瑠璃は構わず玄関に向かって走り出す。
と、同時に玄関の扉が開いた。
「真さ……」
違う。瑠璃は足を止めた。
黒いTシャツに黒いハーフパンツの、大柄な男。
見覚えのない男だと思ったが、薄暗い中で目を凝らしてよく見れば、いつだったか、もらい火で焼けてしまった向かいの店の前からこちらを見ていた男にそっくりだった。
「小川さん、探しましたよ」
瑠璃は自分が男に探されていたのかと身構えた。
「あ、ケイちゃん」
信子に『ケイちゃん』と呼ばれた男は、気だるそうに首を回した。
(この人が、信子さんの彼氏?)
瑠璃は後ろを振り返った。
信子はとっくに立ち上がっていた。
リビングの信子と玄関にいる男に挟まれて、瑠璃は逃げ場を失った。
廊下の左右、洗面所と寝室には一応逃げられるが、洗面所はその先が窓のない風呂場しかないし、寝室に窓はあるが飛び降りれば地面に叩きつけられて、死しか待っていない。
全身から血の気が引いていくのを瑠璃は感じた。
「馴れ馴れしく呼ぶの、やめてもらえるかな?」
男は、信子と話をしているが、鋭い視線を信子の手前にいる瑠璃に向けている。
「そんな、私たちの仲じゃないの」
ただでさえ寒気を感じているのに、媚を売るような信子の声を聞いて瑠璃は身震いした。
男は「自分の立場わかってる?」と、楽しげに笑った。
「さ、先々月の分と、先月の分、きっちり払ってもらおうか」
「お、お金なら、そこにいる子が」
信子が瑠璃を指差した。
「無関係な私を巻き込むな!」
瑠璃は信子を怒鳴りつけて、「しまった」と、口を手のひらで覆った。
恐る恐る振り返る。黒ずくめの男と目が合う。
「あんたたちのために、ここの高い管理費、私が払ってたのよ!」
信子の大声を背中に浴びても、瑠璃は男から目をそらさずにいた。
男は瑠璃の頭の先から爪先まで舐めるように視線を這わせると、にこりと笑った。
「じゃあ、来てもらおうか」
男が土足のまま迫ろうとしていた。片手に黒っぽい、先が飛び出して見える何かを持っている。
(銃だ)
瑠璃が気づいたその時、玄関扉が勢いよく開いて白いワイシャツの袖が家の中に何かを放り込んだ。
と、次の瞬間には真夏の昼間以上にまぶしい光に包まれて、目がくらんだ。
空気を裂くような乾いた音と、「瑠璃! 伏せろ!」という真の叫び声が重なった。
その時にはもう、瑠璃は反射的に廊下の床を蹴って、扉が開いていた寝室に向かって飛んでいた。
左の外ももに熱が走る。
寝室に広がり始めた煙を吸って、瑠璃は咳込んだ。
いくつもの荒々しい靴音がこだまする。
聞き覚えのある咳が聞こえてきた。
「瑠璃!」
真の声だ。さっきの光に目がやられたのか、真の顔は見えない。
















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