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山手の家【第7話】

瑠璃はホットプレートの汚れを取る手をせわしなく動かしたまま、信子に気づかれぬよう、注意深く観察した。
白髪のショートヘアーは丁寧にブローしたのか艶々していて、赤い口紅の艶と相まって華やかに見える。
これは、外向けの信子の姿だ。外出や来客の予定がある時の信子はわかりやすい。
店はおろか、大将である主人なき今でも、有名寿司店の女将のプライドは健在なのだろう。
信子は、瑠璃に見られていると気づいていないようで、持っていたバッグや、シールで封がされている高級ブランドの白地の紙袋をソファに投げ置いた。
「こんにちは」
瑠璃も「お邪魔してます」と、真に続いた。
信子は真や瑠璃には目もくれず、探し物でもしているかのようにリビングを見回して、ある1点で動きを止めた。
「いた、いた。泣いているから、どこにいるのかと思ったら」
信子が身をかがめたその先には、幸代と、幸代の腕に抱かれた真珠がいる。
幸代が座ったまま後ろに身を引くのも構わずに、信子はさらに腰を低くした。
「真珠ちゃん、こんにちは」
真珠は自分の名前を呼んだ信子にちらりとだけ視線を向けると、間髪入れずにさらに大きな声で泣き声を上げた。
「元気でいいことだわ」
信子が豪快に笑うそばで、幸代が「もうっ」と、小さく発した。
「もしかしたら、ミルクかも」
幸代が瑠璃を見上げた。
「お腹空いてたのね」
真が隣にやってきて、ホットプレートの電源を落とそうとしている瑠璃を「そのままで」と、制する。
「それ、僕が代わるよ」
「じゃあ、お願い」
真にバトンタッチして真珠を迎えに行くと、真珠は口をパクパク動かしながら両足をばたつかせた。
お腹が減っているサインだ。
ミルクの前にオムツを換えてやりたいけれど、今はミルクが先らしい。
「大変。瑠璃さんがおっぱいあげられる場所がないわぁ」
「真さんのお部屋であげてきます」
「あの部屋、荷物だらけだし、扉がきちんと閉められないのよ」
信子がリビングの扉を閉め忘れていて、玄関脇にある真の部屋がリビングからも見えた。
真の部屋の扉は何かでつっかえているのか半開きになっていて、中にうず高く段ボールが積まれているのがわかった。
他の部屋となると、2階の部屋しかない。メゾネットタイプのこの家にはマンションでありながら2階がある。
でも、どちらも使えない。2階にある2部屋は、1つを義人と幸代が、もう1つを信子が使っている。
真珠の背中を撫でながら、どこでミルクをあげようか考えていると、信子が目を細めて真珠の顔を覗き込んだ。
「本当にお人形みたいに、可愛い子よね」
我が子を可愛いと言われても、相槌を打つどころではなかった。
喜んだり、それはお世辞なんじゃないかと勘ぐったりする余裕すら、瑠璃にはなかった。
「誰かさんが荷物を片付けないから」
幸代の声に、信子の笑顔が一瞬だけ凍りついたように見えた。
「段ボールの陰であげてきます」
「えぇっ、そんな」
早足でリビングを離れようとする瑠璃の後ろで幸代の悲鳴に近い声が上がった。
「みなさんが部屋に近づかなければ大丈夫です」
瑠璃がリビングの扉を閉めると、真が「だそうです。みなさん、近づいたらダメですよ」と、少し大げさに言うのが聞こえた。
真珠の泣き声が少しだけ小さくなる。ミルクがもらえるとわかったのかもしれない。
「いい子ね」
瑠璃は真珠の背中を撫でた。
日当たりのいいリビングとは対照的に、真の部屋のある北側は基本的に薄暗いのだが、薄暗いを通り越して暗い感じがする。夕暮れが近いのと、荷物のせいだろう。
真の部屋が近づくにつれ、幸代の言っていたことの意味がわかったような気がした。
扉を開けて、荷物の多さと、ほこりっぽい臭いに圧倒されそうになる。
一歩中に踏み込むと、段ボールだけではなく、見覚えのある食器棚や、何を収納するためのものかわからない、大きな黒い棚が鎮座していることがわかった。
さっき玄関に上がった時には、出迎えに現れた義人と幸代と話しながらリビングに向かったので、真の部屋がどうなっているのか気に留めていなかった。
瑠璃は念のため、閉められるところまで扉を閉めた。
真珠を荷物にぶつけたり、引っかけたりしないようにしながら荷物の隙間を慎重に進む。
黒い棚の前まで来て、瑠璃は足を止めた。
その少し先にある、真が使っていた学習机の椅子は段ボールの箱が積み上げられていて使えそうになかった。
瑠璃は足元を見た。ここなら、ぎりぎり座れそうだ。
段ボールの壁を背にしてその場に座る。これなら、中に入ってこない限り、誰にも見られずに授乳できる。
外出先でも授乳しやすいように着ていた、前開きのブラウスのボタンを外すと、真珠はおとなしくなった。
瑠璃は真珠が生まれるまで、制服以外に前開きのブラウスを着ることがなかった。制服がイヤだったから、というのもあるし、胸元が開いた服を着るのもあまり好きではなかった。
(母親になると、案外、変われるものなんだな)
無心におっぱいを吸う我が子を見ていると、愛おしさが込み上げてきて、思わず笑顔になる。
ふと、何かの気配を感じて顔を上げる。
目の前の黒い棚の一段に、真が独身の頃から贔屓にしている紳士向けブランドの、真新しそうな紙袋が置かれていた。
(信子さんの私物?)
瑠璃は紙袋に違和感を覚えた。

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