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山手の家【第45話】

坂を下りた先にある百貨店は、1階の化粧品売り場の香りを目の前の交差点まで漂わせていた。
エレベーターに乗り合わせた鮮やかなピンク色のジャケットを着た年配の女性が、真珠の顔を覗き込んで「おめめぱっちりで、お人形みたいねぇ」と、目を細めた。
デパ地下で昼食用の惣菜パンと、夕食用の食材を買い込んでマンションに戻ると、1階のエレベーターホールで掃除のおじさんと淡い灰色の髪を1つにまとめた細身の男性が話し込んでいた。
オートロックを解除して中に入ると、2人は話すのをやめて一斉に瑠璃と真珠に視線を向けた。
「こんにちは」
瑠璃が挨拶をすると、掃除のおじさんが「お帰りなさい」と明るく声をかけてきた。
細身の男性が首をすぼめるように会釈をしたので、瑠璃は頭を下げた。
(この人が、真さんの言ってた、お隣さんかな?)
外見は真の言っていた特徴に一致している。
もしもお隣さんで間違いないなら、ちゃんと挨拶しておきたいところだったが、掃除のおじさんと話し込んでいる最中のようなので、挨拶はまたの機会にすることにした。
帰宅して、真珠をベビーカーから下ろしてリビングに連れて行く。
真珠は1人でおすわりをして、おもちゃで機嫌よく遊び始めた。
瑠璃は、買ってきた夕食の食材を冷蔵庫に入れると、ダイニングテーブルの上でタブレットを開いた。
インターネットを立ち上げて、検索窓に先日届いたばかりの盗聴器発見機の型番と、『使用』の文字を入力する。
同じ発見器を使った人が書いたブログをいくつか読み直して、瑠璃は「しまった」と、漏らした。
(そうか、電子機器の電源をオフにしないといけないのか)
瑠璃はリビングの隅に置いたWi-Fiのルータとスマホ、タブレットの電源を切った。
下着の入っている引き出しから引っ張り出してきた発見機に電源を入れると、ピッ・ピッと、小さな電子音が規則正しく流れた。
(Wi-Fiに反応してたのかしら)
この前発見器を試した時とは大違いだ。瑠璃は一瞬ほっとしたが、すぐに「いや、待て」と冷静になった。
(この状態で反応があるか確かめないと)
まずは狙われやすいという、電話のモジュラージャック付近に近づいてみる。反応は変わらない。
キッチンも、テレビの裏のコンセントも反応は変わらない。
前回のようにリビングにいるだけで発見器の針が振り切れて、うるさいアラートが鳴ること自体がなかった。
(私の考えすぎだったかしら)
ベランダに続く窓に近づいてみる。
手元の発見機の針が黄色のゾーンに触れ、アラートの間隔が早くなった。
(うそ、やっぱりあるの?)
鼓動が早くなっていく。
窓枠のすぐ隣にあるコンセントに狙いを定めて発見器を近づけてみる。
アラートがさらに激しく鳴り、電波の強さを示す針は赤色のゾーンを通り越して振り切れた。
遊んでいた真珠が不思議そうに、あたりをきょろきょろと眺めている。
発見器をコンセントから離すと静かになり、再びコンセントに近づけると騒がしい音を立てる。
窓から離れた壁側や、カウンターキッチンの周辺を確認したが、反応はない。
再び、反応のあったコンセントに近づいてみる。
近づくだけで発見機が騒ぎ出す。
(ここかぁ……)
実際に、盗聴器が仕込まれているのかどうかを確認するには、コンセントの中を見る必要がある。
瑠璃は電源を落とした発見器をテーブルに置いて、コンセントを睨んで腕を組んだ。
(人の話を盗み聞きするような、そんないやらしい人なんて、あの人しかいない)
瑠璃の脳裏に信子の姿が浮かんだ。
(くそっ、今に見てろよ)
瑠璃は盗聴器の有無を調べるために切った電子機器の電源を、1つずつ入れ直した。
胸の中で怒りが静かに湧き立つ。
(おとなしく、やられっぱなしだと思うなよ、ババア)
スマホがWi-Fiにつながっていることを確認して、瑠璃は音楽アプリを立ち上げた。
(ちょっと脅かしてやりましょ)
アプリの楽曲検索で『般若心経』と検索すると、いろいろな寺院の般若心経が表示された。
(しばらく流しておこう)
瑠璃は、発見器の反応があったコンセントの真下に、真珠用に買った低いテーブルを置くと、コンセントに向かってスマホのスピーカーを向けた。
鐘の音が響き、僧侶の読経が始まった。規則正しい木魚の音が乗る。
(子供の頃から聞き慣れてるといえば、やっぱりこれなんだよなぁ)
リピートボタンを押し、続いて音量を上げる。
瑠璃は静かに瞼を閉じた。
と、ほぼ同時に、この部屋ではないどこかから、イスから誰かが転げ落ちたような大きな音が響いた。
瑠璃は反射的にお隣さんと接している壁を見た。
(隣? まさか、上?)
上はまだ誰も住んでいないはずだ。
そうなると、隣しかない。
誰かが走り回るような、重い足音が聞こえてきた。

















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